深夜二時、オフィスには田中だけが残っていた。
パソコンの画面を見つめながら、彼は溜息をついた。今月で三十時間の残業である。給与明細を確認すると、また計算が合わない。
「おかしいな」
田中は電卓を叩いた。時給換算すると、明らかに支給額が少ない。経理の佐藤に相談しようと思ったが、彼女は先月から体調を崩して休んでいる。
机の引き出しから就業規則を取り出す。残業代の項目を読み返していると、妙な条項が目に留まった。
『深夜勤務手当は、午前零時以降の労働に対し支給する。ただし当該時間の労働者が生存している場合に限る』
「生存している場合?」
田中は首を傾げた。どういう意味だろう。法律用語は難しい。
ふと気づくと、自分の手が透けて見えた。パソコンのキーボードも、指が触れているのに感触がない。
「あれ?」
立ち上がろうとしたが、椅子から腰が上がらない。いや、正確には腰を上げているのに、体が椅子と一体化しているような感覚だった。
壁の時計を見る。針は午前二時十五分を指していた。
そういえば、先週の金曜日。残業中に胸が苦しくなって、机に突っ伏したまま意識を失った。その後の記憶が曖昧だ。
月曜日になっても誰も出社してこない。火曜日も、水曜日も。
田中はようやく理解した。自分がなぜ残業代の計算が合わないのか。なぜ一人でオフィスにいるのか。
死人に残業代は支給されない。