灯が消えても、眠れなかった。
澄乃は夜具の上に起き直り、膝を抱えて暗闇の中に座っていた。行灯の芯は尽き、板の間に這う月光だけが白く冷たく伸びている。西陣の夜は静かだった。機の音も、呼び売りの声も、すべてが沈んで、ただ遠くで烏が一声鳴いた。
哲三が持参した資料の文字が、まぶたの裏に焼き付いていた。
——似た顔の女は長く居られない。
読んだ瞬間、何かが胸の底で音を立てて落ちた。恐怖ではなかった。むしろ、ずっと霧の中を歩いてきた者がようやく足元の地を見つけたときのような、奇妙な落ち着きだった。自分は朱乃の末裔であり、百年前に果たせなかった誓いの続きをここで生きているのだと。そう気づいた瞬間から、澄乃の時間の流れ方が変わった気がした。
しかし落ち着きは長くは続かなかった。
糸のことを、思い出したからだ。
柊 糸。あの目は、春の初めからずっと澄乃を見ていた。品定めをするような、値踏みをするような、それでいてどこか愉しむような目だった。今朝の廊下ですれ違ったとき、糸は何も言わなかった。ただ薄く微笑んで、澄乃の横を通り過ぎた。その微笑みの意味を、澄乃はまだ測りかねている。
——あの方は、もう動いているかもしれない。
直感だった。根拠はない。けれど、糸という人間は悠長に待つたちではない。何かを摑んでいるなら、それを最も効果的な瞬間に使う。そういう人だと、半年の奉公を通じて澄乃は学んでいた。
澄乃は静かに立ち上がり、窓の外を見た。中庭の向こう、母屋の二階に、まだ灯りがあった。一郎の書斎だ。夜更けに書き物をする癖があると、古参の女中が話していた。西洋の商売書を読み込み、帳面に何かを書き付け、朝まで灯を落とさない夜もあると。
——今夜、話さなければ。
その考えは、まるで最初から決まっていたことのように、澄乃の胸の中へ静かに降りてきた。
夢のことを、思い出していた。
三日前のことだ。朱乃が夢に現れた。いつものように霧の中だったが、その夜の朱乃は微笑まなかった。ただじっと澄乃を見て、それから口を開いた。声は聞こえなかった。けれど唇の動きは、はっきりと読めた。
——正直に、話しなさい。
澄乃は自分の手を見下ろした。細い、日焼けした手だった。奉公の間にいくつかの傷がついた。実家にいたころは手仕事などせず、古い書物ばかり読んでいた手だ。この手が今は、柊屋の土間を掃き、反物を運び、一郎の書斎の茶を立てている。
素性を隠すことは、澄乃自身が選んだことだった。家名より人の情を、と常に思って生きてきたのに、その信念が今、己の嘘に揺さぶられている。
夜具を畳み、澄乃は帯を締め直した。
廊下に出ると、空気がひやりとした。板廊下の木目が月光に浮き上がり、澄乃の足音は綿足袋に吸われて消えた。中庭に面した渡り廊下を進む。庭石の上に霜が降りていた。もう秋も深い。
二階への階段を上りながら、澄乃は小さく息を整えた。
どう話すか、まだ決まっていなかった。言葉を用意しようとするたびに、それが陳腐に思えてほどけてしまう。ただ、話すということだけが決まっていた。
書斎の前に立った。戸の隙間から灯の線がのぞいている。
古い和歌が、口をついた。声には出さず、胸の中でだけ。
——思ひきや 雪踏み分けて かかる世に ありとも知らで 忘れわびつつ。
かつて逢えぬ恋人を想い詠んだ歌だと、亡き母が教えてくれた。今の澄乃には、その歌がまるで違う意味に聞こえた。真実を踏み分けて、ここまで来たこと。来るとも知らずに、来てしまったこと。
澄乃は、扉を叩いた。
「……誰だ」
一郎の声がした。低く、警戒する声だった。
「澄乃です」
短い沈黙があった。
「入れ」
書斎は、西洋の書棚と和の文机が混在する、一郎らしい部屋だった。ランプが一つ、文机の上で揺れている。一郎は椅子を引いて立ち上がりかけていたが、澄乃の顔を見て動きを止めた。
「こんな刻に。何かあったか」
「はい」
澄乃は部屋の中程で立ち止まり、一郎を見た。一郎は澄乃を見た。ランプの光が二人の間の空気を橙色に染めていた。
「申し上げたいことがございます。長くなるかもしれません」
「座れ」
澄乃は膝を折り、畳に正座した。一郎は椅子には戻らず、文机の端に腰を預けて腕を組んだ。その目は静かだったが、何かを測るような鋭さがあった。
「私は」
声が、一瞬つかえた。
喉の奥に何かが詰まっているように感じた。しかし澄乃は息を吸い、それを押し開くようにして続けた。
「私は、藤原の者でございます」
沈黙が落ちた。
一郎は表情を変えなかった。腕を組んだまま、ただ澄乃を見ている。
「藤原、とは」
「没落した公家の家名でございます。正確には藤原分家の末裔ですが、当家はかつて西陣界隈に屋敷を構えておりました」
「……柊屋とは旧縁があると、以前から言われていた家か」
「はい」
また沈黙。一郎の目が、わずかに動いた。
「なぜ素性を隠した」
責めるような声ではなかった。問いそのものの形をした声だった。澄乃はその問いを、正面から受け取った。
「柊屋に奉公に来たのは、蔵に眠る花嫁人形に会うためでございました。百年前、私の先祖が果たせなかった誓いに、関わりがあると信じていたから」
一郎の眉が、わずかに動いた。
「哲三のことも、あなたが引き合わせたのか」
「はい。彼の調査が、真相に近いと思い」
「朱乃のことも、知っているのだな」
澄乃は息を止めた。一郎の口から朱乃の名が出たことに、驚いた。けれどそれ以上に、一郎が静かなその目で澄乃を見続けていることが、胸に痛かった。
「はい」
「自分が、百年後の朱乃だと」
澄乃は答えなかった。答える代わりに、一郎の目を見返した。
一郎は長い間、無言だった。それから静かに椅子に戻り、机の上の書類の一枚を手に取り、またそっと置いた。
「……わかった」
「叱責はございませんか」
「叱責のしようがない」
それだけ言って、一郎は窓の外を見た。
澄乃はその横顔を見ながら、胸の中で何かがゆっくりと溶けていくのを感じた。泣きたいわけではなかった。ただ、長い間抱えてきたものを、地面に降ろしたような感覚だった。
しかし。
澄乃は立ち上がりながら、廊下の気配を聞いた。
気のせいかもしれなかった。けれど確かに、板廊下のどこかで木が微かに鳴った。足音ではない。誰かが立ち止まった音だ。
「——一郎様」
澄乃が声を低めた瞬間、一郎も顔を上げた。二人は同時に、書斎の扉を見た。
灯の線が消えていた。
戸の向こうから、灯が遠ざかっていた。
それは人が、灯を持って廊下を歩き去っていく光だった。
澄乃の全身に冷たいものが走った。
——糸だ。
確信があった。聞いていた。どこまで聞いていたか、わからない。けれどあの方が廊下に立っていたなら、もう充分だろう。澄乃が藤原の末裔であること、朱乃の名が出たこと、そして澄乃が自ら一郎に打ち明けたこと。
問題は、糸が何を持っているかだ。
「書類があるかもしれません」と澄乃は言った。「私の素性を証明する何かを、あの方が独自に入手していたなら——」
「糸叔母が動いたとしても」
一郎は静かに遮った。その声は落ち着いていた。しかし落ち着きの底に、何か硬いものが混じっていた。
「お前が先に話した。それだけのことだ」
澄乃は一郎を見た。一郎は澄乃を見なかった。窓の外の夜を見ていた。その横顔に、何を読み取ればよいか、澄乃にはまだわからなかった。
ただ、廊下に消えた灯のことが、ずっと頭から離れなかった。
糸が動いた夜が、始まっていた。