雨が上がって三日が過ぎた。
梅雨の合間に差し込む七月の日差しは白く眩しく、石畳を乾かした後も、どこか湿った記憶を地の底に押し込めているようだった。柊屋の蔵は、その古い匂いごと、ひっそりと息をひそめていた。
宗像哲三が蔵の前に現れたのは、昼餉を終えた直後のことだった。
「澄乃さん、ちょっとよろしいですか。いや、できれば一郎さんも」
いつもの快活な声が、今日はわずかに抑えられていた。澄乃が振り向くと、哲三は小脇に古い巻紙を抱え、右手に細長い木の棒を持っていた。何かを測るための道具らしかった。
「先日から気になっていたんです」と彼は言い、蔵の入口へ目をやった。「石畳の、あの継ぎ目です」
澄乃は眉を寄せた。蔵の前に敷き詰められた石畳は、柊屋の歴史と同じほど古く、表面は滑らかに磨耗していた。けれど言われてみれば、南の隅のあたりだけ、石と石の継ぎ目が他と微妙に違う。目地の幅が広く、苔の色が浅い。まるで後から誰かが直したように。
一郎を呼びに行くと、彼は帳場で取引先との書簡を読んでいた。澄乃の用件を聞いた瞬間、筆を置いて立ち上がった。先日の縁側の夜以来、二人の間には言葉にならない何かが沈殿していたが、今はそれよりも哲三の発見の方が先だった。
「宗像さんが、何か見つけたと」
「はい。蔵の石畳の下に、空洞があるかもしれないと」
一郎の目が、わずかに細くなった。
三人が蔵の前に集まると、哲三はさっそく木の棒で石畳を叩き始めた。乾いた高い音が続く中、南隅の数枚だけが、鈍く低い音を返した。
「ほら、聞こえますか。ここだけ、響きが違う」
一郎が膝をつき、石に耳を近づけた。澄乃もしゃがんで耳を澄ます。風が止んだ一瞬、確かに聞こえた。石の下に、空気の層がある。
「……本当だ」と一郎は静かに言った。
哲三が持参した巻紙を広げる。第十八話の夜、澄乃が古文書の束の中から見つけた古地図の写しだった。薄墨で描かれた柊屋の敷地に、細い線がいくつか走っている。哲三はかねてからその線を気にしていたのだという。
「この線、最初は水路か何かと思っていたんですが、建物の配置と照らし合わせると方角が合わない。それに、ここ」彼は地図の一点を指でなぞった。「藤原家の家紋があるでしょう。九条の藤。柊屋の敷地の地図に、なぜ藤原家の紋が記されているのか」
澄乃の胸が、ひとつ跳ねた。
あの古地図を初めて見た時から、胸の奥で燻り続けていた疑問だった。今まで答えが見えなかったものが、ここに来てようやく形を持ち始めている。
石畳を動かすことになった。一郎が蔵番の老人に頼んで道具を借り、三人がかりで南隅の石を一枚ずつ持ち上げた。石は思いのほか重く、日に焼けた澄乃の手に赤い跡が残った。
三枚目の石をどかした時、哲三が「あ」と声を漏らした。
土の代わりに、黒ずんだ木の板が現れた。
板の合わせ目には、古い鉄の金具が嵌め込まれている。錆びてはいるが、形はしっかりと残っていた。引き手の金具だった。
だれも口を開かなかった。
一郎が金具に手をかける。軋む音がして、木の板が、呻くように持ち上がった。黴と土と、それから何か甘いような、不思議な香りが混じった空気が、地の底から滲み出てきた。
板の下には、石で組まれた階段があった。
幅は一人がやっと通れる程度。十段ほど降りると、暗がりの中で廻廊が左右に伸びているのが見えた。天井は低く、石組みは荒削りだったが、崩れてはいない。少なくとも入口のあたりは。
哲三が提灯を持ち込み、先に降りた。澄乃と一郎が続く。
廻廊の壁は冷たく、指先に触れると湿った砂がわずかに崩れた。提灯の火が揺れるたびに、石の陰影が変わり、廻廊が生き物のように見えた。
そして、入口の正面の壁に、それはあった。
澄乃は息を呑んだ。
石に彫られた二つの紋。向かって左は、枝垂れ藤を図案化した藤原家の紋。向かって右は、柊の葉を象った柊家の紋。二つはまるで手を取り合うように、同じ大きさで、同じ深さで、石に刻まれていた。
「……これは」
哲三が掠れた声で言う。澄乃は答えられなかった。
紋の周囲には、細かな文字が彫り込まれていた。提灯を近づけると、くずし字で何かが読み取れる。哲三がそっと指でなぞる。
「誓約、とあります。明治……いや、これは元治か、慶応か。幕末の年号です」
元治。慶応。幕末の、あの激動の季節。朱乃が生きていた時代。
澄乃はゆっくりと紋に手を伸ばし、藤原家の紋の上に指を重ねた。冷たかった。石は、百年分の冷たさを蓄えていた。それなのに、触れた瞬間に何か温かいものが指先を走ったような気がした。錯覚だと思いたかった。でも心臓は、静かに速くなっていた。
一郎は一言も発しなかった。ただ傍らに立って、柊家の紋を見つめていた。その横顔が、提灯の明かりに照らされて、いつもとは違う色をしていた。何かを堪えているような、あるいは何かを認めているような、静かな表情だった。
「廻廊は、奥へ続いているんでしょうか」
澄乃は呟くように問うた。哲三が提灯を奥に向ける。
十数歩先で、廻廊は塞がれていた。
天井から崩れ落ちた土と石が、通路を完全に埋めている。長い年月の重みが、ゆっくりと廻廊を押しつぶしたのだ。崩落の規模は見た目には分からないが、容易に除けられるものではないことは明らかだった。
「当面は進めませんね」と哲三が言った。「土木の専門家に頼むか、慎重に時間をかけて掘るか。どちらにしても、急いては危ない」
一郎がうなずく。「分かった。今日のところはここまでにしよう」
三人は廻廊を出た。地上に戻ると、七月の日差しが眩しく、目が痛いほどだった。蔵番の老人には口止めをして、石畳を元通りに直す。表から見れば、何事もなかったかのような光景だった。
けれど、澄乃の中には重いものが残っていた。
興奮とも違う。恐れとも違う。もっと静かで、もっと深い何か。あの二つの紋が並ぶ光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
百年前に、藤原家と柊家の誰かが、あの廻廊の入口に二つの家紋を刻んだ。誓約の文字と共に。
それが何を意味する誓いなのか、まだ分からない。廻廊の奥に何があるのかも。朱乃がどのようにしてその誓いに関わっているのかも。
分からないことばかりなのに、澄乃はふと、ある和歌を思い出した。
――契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
誓ったのだ、と誰かが言うように、その歌は心に浮かんだ。どんな波が来ても、この誓いは越えさせまい、と。
屋敷に戻る道すがら、一郎が澄乃の隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「あの廻廊は、俺が生まれる前からあったんだ」
「……ご存知でしたか」
「いや、知らなかった。ただ」彼は少し間を置いた。「なぜか、初めて見た気がしなかった」
澄乃は何も言えなかった。
梅雨の晴れ間の空は、あまりにも青く、あまりにも高かった。その青さの下で、百年前の誓いがようやく地上に顔を出した。廻廊の奥はまだ閉ざされている。だが、扉は開いた。
何かが、始まろうとしていた。