朝の光が薄く差し込む前から、澄乃は目を覚ましていた。
昨夜、一郎が告げた言葉がまだ耳の底に残っている。予定通り、と彼は言った。糸の言葉を受けながらも、地下廻廊への道行きを曲げなかった。その事実の重さを、澄乃は布団の中でじっと確かめるように反芻した。信頼とはこういうものか、と思う。語りかけるのではなく、ただ在り続けることで示される、静かな確かさ。
縁側の向こうで雀が鳴いた。秋の気配が日に日に濃くなり、西陣の朝は藍色から橙へとゆっくりと移ろっている。澄乃は起き上がり、着物の衿を整えながら、今日の務めに向かう覚悟を胸の内で結び直した。
哲三が訪ねてきたのは、昼四つを少し過ぎた頃だった。
柊屋の奉公人として過ごす日々の中で、澄乃が客人を迎えることはほとんどない。しかし哲三は澄乃を名指しにして訪れ、「少しだけ時間を貸してほしい」と人好きのする顔でいった。裏庭の隅、物置小屋の脇に積まれた古い瓦の陰を借りて、二人は向かい合った。
哲三は風呂敷包みを解き、一枚の古地図を取り出した。
「これを見てください」
広げると、変色した和紙に薄墨で描かれた町の区割りが現れた。柊屋のある西陣の一帯だと、澄乃にもすぐわかった。しかし何十年も前に引かれたであろうその線は、現在の町並みとは微妙にずれており、今は存在しない路地や塀の跡が丁寧に書き込まれている。
「幕末のものです。おそらく文久か元治の頃。大学の恩師の蔵書の中から見つかりました」
哲三の声に、いつになく緊張の色があった。好奇心旺盛な彼がここまで硬い表情を見せるのは珍しい。澄乃は地図へと視線を落とした。
柊屋の敷地を示す四角い区画の内側に、細い線が幾本か引かれている。建物の間取りではない。それよりもずっと深いところを、縦横に走っているように見える。
「まさか」と澄乃は呟いた。
「地下廻廊の痕跡です。あるいは、廻廊の計画図、かもしれない」
哲三は指の先で地図の一点を示した。柊屋の蔵と思われる区画の真下から、一本の線が伸びていた。それは塀を越え、路地を横断し、北へ向かっている。その先にあるのは、かつて西陣の北端に存在した公家の屋敷群の跡地だった。
今は多くが市井に払い下げられ、商家や職人の家が立ち並んでいる。しかし澄乃には、その先がどこへ繋がるかわかった。骨格だけが残った藤原家の古屋敷。幼い頃に迷い込んで叱られた、あの薄暗い廊下の突き当たりへ。
「幕末、尊王攘夷の動きが京に満ちていた頃、公家衆の一部は商家を介して志士たちと連絡を取り合っていたとされています。表向きは着物の仕立てや反物の取引、しかしその裏に、人や文書を動かす秘密の経路があったと」
哲三は淡々と続けた。しかし澄乃には、その言葉が単なる歴史の話として聞こえなかった。先祖が。藤原の血を引く誰かが、この廻廊を使って、この町を歩いたのだ。
「ちょっと待って」
澄乃は地図に顔を近づけた。蔵の区画を示す四角の傍、ほんの小さな余白に、何か押されている。墨が薄れて見えにくいが、それは確かに、紋様だった。
丸に三つ巴——違う。もっと細い線が重なっている。
「これ、藤原家の家紋では」
声が微かに震えた。藤原家の家紋は、下り藤。五枚の花弁が連なり、緩やかに垂れ下がる藤の房を象った意匠だ。薄れていても、その優美な曲線の連なりは見間違えようがなかった。
哲三がゆっくりと頷いた。
「気づきましたか。私も最初にここを見た時、指が止まりました。柊屋と藤原家。百年前のこの地図に、両家に関わる痕跡が同じ紙の上に残されている」
澄乃はしばらく言葉を失った。
先祖がいた。この廻廊に、先祖が関わっていた。それはもはや朱乃の夢の中の話でも、漠然とした宿縁の予感でもない。紙の上の、墨の跡だ。消えない事実として、百年の時を越えてここにある。
藤原の末裔として、澄乃はある種の宿命を子供の頃から言い聞かされてきた。没落した家名の重み、果たされなかった何か。しかし大人たちはついぞその正体を明かさなかった。朱乃が夢に現れ始めてから、ようやくその輪郭が見え始めた。そして今、地図という形で、確かな証拠が目の前にある。
「哲三さん」と澄乃は言った。「先祖は何を守ろうとしていたのでしょう」
哲三は少し考えてから答えた。
「廻廊の目的は、人を運ぶことだったかもしれない。あるいは、物を。しかし私が気になるのは、なぜそれが今も柊屋の蔵の下に残されている可能性があるか、ということです。廃絶された通路ならば、塞がれてもおかしくない。それが今なお地図の上で現役のように描かれているとすれば、何かが、あるいは誰かが、この廻廊を塞ぐことを望まなかった」
澄乃の心の中で、何かが静かに動いた。
朱乃の声が記憶の底から浮かび上がる。夢の中で聞いたあの言葉——「待っている」という、あの響き。百年、廻廊の下で待ち続けた魂があるとしたら。塞がれることを拒んだのは、その魂ではなかったか。
「今夜、一郎さんと廻廊を探しに行く予定です」
澄乃は言った。哲三の目が少し見開かれた。
「それは……危険ではないですか。糸さんの目がありますし」
「わかっています。でも」
澄乃は地図の上の下り藤を、もう一度見つめた。その紋が、こんなにも遠くから自分を呼んでいたように思えた。
「今夜でなければならない気がするんです。理屈ではなくて」
哲三はしばらく沈黙してから、「わかりました」と言った。「私は外から動きます。廻廊の出口がどこに繋がるか、地図を元に調べておきます。もし何かあれば、すぐ動けるように」
その申し出の温かさに、澄乃は小さく頭を下げた。礼を言う言葉がうまく出てこなかった。ただ、こんなにも心強いとは思わなかった、と胸の内で呟く。
哲三が帰り際、地図を澄乃に手渡した。
「持っていてください。柊屋の蔵の前で広げれば、どこに入口があるか大まかな見当はつくはずです」
「よろしいんですか」
「あなたが持つべきものです」
澄乃は地図を丁寧に折り畳み、着物の懐に収めた。藤原家の家紋がその内側に宿るように。
夕刻、縁側から空を見上げると、雲が低く垂れ込めていた。雨になるかもしれない。それでも澄乃の心は澄んでいた。使命と呼ぶには重すぎるが、ただの好奇心と呼ぶには深すぎる何かが、今夜の廻廊へと向かって、静かに燃え始めていた。
廊下の向こうから一郎の足音がした。澄乃はそちらへ視線を向けた。
二人の目が合った瞬間、一郎は何も言わなかった。ただ小さく頷いた。それだけで十分だった。今夜の約束は、言葉の要らない形で確かめられた。
懐の地図が、体温でほんのりと温まっていた。
そしてその夜、蔵の扉を開けた澄乃は、足元の石畳に、もう一つの家紋が刻まれているのを見つけることになる。柊家の——柊の葉を象った紋が、百年前の下り藤と並んで、そこに静かに眠っていた。