潮の匂いが変わったのは、夜半を少し過ぎた頃のことだった。
澪は縁台の上に広げた手帳を膝に乗せ、ぼんやりと港の方角を眺めていた。手帳には今夜もいくつかの言葉が書き込まれている。夫の笑い方のこと。好んで食べた魚の名前。忘れる前に書き留めたもの、すでに半ば輪郭の溶けかかったもの。記憶の地図、と澪は心の中で呼んでいた。売り払った記憶の欠落を埋めるのではなく、ただその形を記録していくための地図。縹と夜を過ごした翌朝から始めたそれは、すでに三十ページを超えている。
しかし今夜は、筆が止まった。
風が違う。
普通の潮風なら鼻の奥に磯の鋭さを残す。だがこの匂いは違う——藍染めの布を雨に濡らしたような、古い木箱を開けた時の埃と蜜蝋の混じったような、どこか時間の外側からやって来る香りがした。澪はゆっくりと立ち上がり、手帳を胸に抱えて路地の奥を見た。
霧が出ていた。
それ自体は珍しくない。港町の夜には霧がつきものだ。けれどこの霧は、街灯の光を飲み込まずに、むしろ自ら発光しているように見えた。淡く青みがかった光が、石畳の継ぎ目から滲み出るように揺れている。
ああ、と澪は思った。声には出さなかった。
知っている、この気配を。
*
千斗が異変に気づいたのは、その少し前のことだ。
彼は宿の二階の窓を開け放ち、港を見下ろしながら紙に何かを書いていた。市場の裏事情——白榊糸子の動き、取引の無効化とはどういう仕組みか、監査官という役職が市場においていかなる権能を持つのか。調べれば調べるほど、霧の中に霧が続くような感覚があった。
それを書き留めていた手が、ふと止まった。
窓の外の空気が、変質している。
声を失った千斗には、世界が別の解像度で届く。匂い、気圧の微細な揺れ、肌の上を走る温度の変化——そういったものが、以前より鮮明に彼の神経を刺激するようになっていた。今夜感じるそれは、以前に一度だけ経験したことのある感覚と酷似していた。あの夜、百年に一度の満月の夜、継ぎ接ぎ市場が口を開いた時の予兆と。
ただし今夜の月は満月ではない。欠け始めた中間の月が、霧の向こうでぼんやりと滲んでいるだけだ。
千斗は紙を一枚手に取り、素早く何かを書いた。それをポケットに押し込み、外套を羽織って階段を駆け下りた。
*
霧の中の路地は、見慣れた街並みとは別の場所のように感じられた。
澪が足を踏み入れると、石畳の感触は変わらないのに、音が違った。自分の足音が柔らかく吸い込まれ、遠くの波音だけが妙にくっきりと届いてくる。店の看板も、荷台を引いた馬の轍も、全て正しい位置にあるのに、何か一枚薄い膜を隔てたように現実感がない。
半開き、という言葉が浮かんだ。どこからきた言葉なのかわからない。ただそれ以外の言葉が思いつかなかった。
市場は開いていない。けれど、閉じてもいない。
澪は霧の奥へ、磁石に引かれるように進んでいった。
角を曲がったところで、人影にぶつかりそうになった。
思わず息を呑む。相手も足を止めた。霧の中で、ふたりはしばらく見つめ合った。
千斗だった。
澪は彼の顔をすぐに思い出せた。声を持たない少年。市場で幾度か見かけた、あの真剣な目をした若者。千斗もまた、澪を認識したらしく、表情が微かに変わった。驚き、それから何かを確かめるような目。
彼はポケットから紙を取り出した。街灯の光も霧に滲む中、澪はそれを受け取り、目を凝らして読んだ。
——あなたも、感じましたか。
澪は頷いた。
千斗はすぐに別の紙に書く。
——市場が、半分だけ開いている。
澪はしばらくその紙を見つめ、それから霧の奥へと目を向けた。青みがかった光は、確かに強くなっている。路地の継ぎ目から滲み出る光が、少しずつ奥へ、奥へと続いていた。
「行きますか」と澪は言った。それから千斗に向き直り、「一緒に」と付け加えた。
千斗は頷いた。迷いのない動作だった。
*
路地の奥に市場があった。
正確には、市場の輪郭があった。
屋台の骨格、縄暖簾、石造りの水路——それらは全て霧の中で半透明に浮かんでいる。光が当たった部分だけが実体を持ち、影になった部分はそのまま霧に溶けていた。音も半分しかない。露天商の呼び込みの声が、水中で聞くように遠く、くぐもっている。
澪は足を踏み入れながら、不思議な感覚に包まれた。
恐ろしくはなかった。それがかえって不思議だった。この場所が現実から外れていることはわかる。それでも体が、磁力に従うように前へ進んでいく。欠落の形を知っている場所へ、戻ってくるような感覚。
千斗は澪の少し後ろをついてくる。彼は常に周囲を観察していた。目が素早く動き、何かを見つけるたびに立ち止まって手帳に書き込んでいる。
市場の中は、普段と違った。
客が、いない。
商人たちの姿はある——半透明ではあるが、確かにそこにいる。しかし彼らは動いていない。まるで時間が固まったように、それぞれの場所に佇んでいる。風に揺れる縄暖簾だけが動いていて、あとは全て止まっていた。
まるで、舞台装置が整えられていくのを待っているようだ、と澪は思った。
千斗が澪の袖を引いた。彼が指差したのは、市場の中心部——普段ならば〈無名〉の店がある方向だった。
そこだけ、霧が濃かった。
青い光が特に強く漏れている。澪と千斗は顔を見合わせ、ゆっくりとその方向へ歩き出した。
*
近づくにつれ、音が戻ってきた。
霧がここだけ薄い。光の強さがそのまま現実の濃さに比例しているように、この場所だけが妙にはっきりと存在していた。
〈無名〉の店台は、あった。
ただし、無名はいなかった。
店台の上には何も並んでいない。布が一枚、風もないのに微かに揺れているだけ。その脇に、縹が座っていた。
幽影の少女は澪を見て、目を細めた。微笑んでいるのか、悲しんでいるのか、いつもその表情は判然としない。
澪はそっと近づいた。千斗は少し離れた場所で立ち止まり、見守っている。
「縹」と澪は呼んだ。「市場が、おかしい」
縹は答えない。ただそこにいる。
千斗が紙に何かを書き、澪に差し出した。
——縹さんは何かを知っている。でも、まだ言えない。
澪は頷いた。そうだろうと思っていた。
もう一枚、千斗は書いた。
——この「半開き」は、想定外のはずだ。百年周期なら、次の市場はまだ先のはず。何かが、周期を乱している。
澪はその紙を持ったまま、縹を見た。幽影の少女はまだ、静かにこちらを見ている。霧の中の灯火のように、揺れているのに消えない。
「これは始まりの予兆、ということかしら」と澪は呟いた。独り言のつもりだったが、縹がほんの少し、目を伏せた。
肯定のように、見えた。
*
帰り道、霧は少しずつ薄れていった。
石畳の感触が普通の重さを取り戻し、遠くの波音が遠くの音として戻ってくる。気づけば澪と千斗は、最初に出会った路地の角に立っていた。
澪は手帳を開いた。今夜感じたことを、書き留めておかなければならない。地図に、新しい場所が加わった。現実と市場の間にある、まだ名前のない場所。
千斗は最後にもう一枚、紙を渡した。
——今夜のこと、また話しましょう。俺はまだ調べなければいけないことがある。でも、ひとりより、ふたりの方がいい。
澪は微笑んだ。夫を失ってからというもの、誰かと「また」という約束をするのが少し怖かった。それでも今夜は、素直に頷くことができた。
「ええ」と澪は言った。「また」
千斗は頷き、宿の方向へ歩き始めた。その後ろ姿を見送りながら、澪はふと港の方へ目を向けた。
霧はほとんど消えていた。欠けた月が、雲の切れ間から顔を出している。
ただ、その月の縁が——かすかに、青く、滲んでいた。
澪はその光を見つめたまま、動けなかった。
知らず知らず、手帳を胸に引き寄せていた。地図の中に、まだ書いていないことがある。今夜感じた予感——高揚と、それとは裏腹の、名前のつけられない不穏な何かを。
半開きになった市場は、開幕の予兆か。
それとも、閉幕の始まりか。
月は答えずに、ただ青く、滲んでいた。