港の外れに、黄仁の店がある。
正確に言えば「店」とも呼べぬ代物だ。傾きかけた木造の平屋に、雑多な品々が所狭しと並べられているだけ。壺、巻物、古びた羅針盤、どこの国で鋳造されたとも知れない硬貨——そのどれもが「由来不明」の札を下げており、値段の書かれた紙はどこにもない。問えば答える。問わねば黙っている。それが黄仁の商いの様式だった。
朝の靄がまだ路地に溜まっていた頃、引き戸が外側から叩かれた。
黄仁は帳簿らしき帳面を閉じて、大きく伸びをした。年齢の定まらぬその体は、朝の節々の軋みだけをひどく正直に訴えてくる。立ち上がり、扉を引くと、そこに白榊糸子が立っていた。
老婆、という言葉が似合わない。むしろ、長い年月が圧縮されて人の形をしているとでも言うべきか。灰色の綿入れを幾重にも纏い、杖の先には何かの骨で彫られた鳥が据えられている。その目が、黄仁を品定めするように細められた。
「朝早くに恐れ入りますな」と黄仁は言った。飄々と。「ご老体の足腰に堪えたでしょう、こんな坂道」
「堪えぬ」と糸子は答えた。声はひどく乾いていた。砂浜に干した骨のような声だった。「上がらせてもらう」
「どうぞ」
黄仁は一歩引き、糸子のために道を空けた。老婆は杖を鳴らしながら室内へと入り、積み上げられた品々の間を縫うように歩いて、奥の椅子に腰を下ろした。まるで自分の家のように、という表現が黄仁の脳裏をよぎった。
二人の間に、茶の入った碗が置かれた。黄仁が用意したものだ。
「市場のことを聞きに来た」と糸子は言った。前置きもなく。
「はて」と黄仁は碗を両手で包みながら答えた。「どの市場でしょう」
「とぼけるな」
「私は問うているだけですよ」
糸子の目が細くなった。その目の奥には、何か計算めいたものが宿っている。監査官、と名乗るこの老婆が何を監査し、誰に報告するのか——黄仁は以前からその輪郭を探り続けていたが、まだ正体の定かでない影がそこにあるばかりだった。
「継ぎ接ぎ市場の、商人について知っていることを教えろ」と糸子は言った。「名なし。己の名を売った男だ」
「さあ」
「さあ、では済まぬ」
「では、済まぬ、でも私は知りません」と黄仁は微笑んだ。「名前のない商人など、聞いたこともない」
嘘だった。
黄仁はよく嘘をつく。これは自慢でも告白でもなく、ただの事実として、彼の口の中には嘘の形をした言葉がいつも用意されている。それはかつて取引で手に入れた才能なのか、それとも生まれつきの性質なのか——もはや自分でも判然としない。嘘は彼の皮膚のようなもので、剥がせばきっと赤い肉が露わになるだろう。
「お前が市場に出入りしていることは知っている」と糸子は言った。「目撃した者がいる」
「夢を見ることを咎めますか」
「市場での取引を証言すれば、お前の存在を清算の対象から外してやる」と糸子は続けた。碗には手を触れないまま。「百年の清算というものが何を意味するか、お前ならば知っているだろう」
黄仁は窓の外に目をやった。
港が見えた。朝の光の中で、漁船がゆっくりと出ていくところだった。帆が風を受けて膨らむ瞬間が、妙に美しく見えた。
「知りませんな」と黄仁は言った。「私は記録より現物が好きなので」
「黄仁」
糸子の声が低くなった。杖の鳥の首が、ことりと動いたように見えた——気のせいかもしれない。
「お前が市場で売ったものを、私は知っている」
黄仁の碗を持つ手が、わずかに止まった。
「ほう」
「何年前のことか知らぬが」と糸子は言った。「お前は市場で、真実を語る義務を買った。そうだな」
黄仁は何も言わなかった。
「嘘つきが、真実を語る義務を背負った。滑稽だと思わぬか」
「滑稽です」と黄仁は答えた。「とても」
「ならば今、その義務を果たせ」
静寂が部屋に満ちた。港の波の音だけが、遠く聞こえた。
黄仁は碗を卓に置いた。それからゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に積まれた品々のひとつ——小さな漆塗りの箱——の前に歩み寄った。開けはしない。ただ指先でその縁を撫でた。
「義務、というものは面白い」と黄仁は呟いた。「背負えば重くなる。けれど手放そうとすると、もっと重くなる」
「哲学は要らぬ」
「いいえ」と黄仁は振り返った。「これは哲学ではなく、ただの感想です」
糸子の目が、じっと黄仁を見ていた。黄仁はその視線を受けながら、自分の中を静かに点検した。市場の商人のこと。澪と呼ばれる女のこと。声を失った少年のこと。そして名なしの、深い目をした商人のこと。
それらを糸子に渡すことが何を意味するか——黄仁にはわかっていた。
「私は」と黄仁は言いかけて、止まった。
自分はずっと、誰かを騙してきた。
その考えが、突然、胸の底から浮かんできた。波に押し上げられるように、静かに、しかし確実に。
商いの相手。市場での取引相手。時折訪ねてくる者たち。「あの品はどこで手に入れた」「この石の効能は何だ」「あなたを信じていいか」——問われるたびに、黄仁は答えてきた。巧みに、流れるように、真実と嘘を織り交ぜながら。嘘は時に親切で、真実は時に残酷だと、そう言い聞かせながら。
けれど本当のところは。
本当のことを、黄仁は誰かに話したことがあっただろうか。
自分が何者であるかを。何を売り、何を買い、市場で何を見てきたかを。なぜ真実を語る義務をわざわざ買ったのかを。
義務を買った、と糸子は言った。確かにそうだ。黄仁はかつて、市場で「真実を語る義務」を買い取った。何故かと問われれば——自分でもよく分からなかった。嘘ばかりの口に、一本の錨が欲しかったのかもしれない。義務という名の錨を下ろせば、少しは海底に近づけると思ったのかもしれない。
だが錨は重すぎて、黄仁はずっと浮かんだままでいる。嘘の海の上に。
「お前はあの商人を知っている」と糸子は言った。「知っていて、庇っている。なぜだ」
「さあ」と黄仁は答えた。「私にも分かりません」
「また嘘か」
「今度は本当です」
糸子はしばらく黄仁を眺めていた。それから杖を鳴らして立ち上がった。
「清算は遠くない」と老婆は言った。「大潮の満月が近づいている。市場が開く前に、私は全てを整えなければならない。お前が協力しないなら、お前も清算の対象になる。それだけだ」
「はあ」と黄仁は頷いた。「ご忠告、痛み入ります」
糸子は引き戸を開けて、出ていった。杖の音が遠ざかり、やがて消えた。
黄仁は部屋に一人残された。
碗の茶はすっかり冷めていた。飲み干すと、苦みだけが口に残った。
窓の外で、漁船は既に水平線の向こうに消えかけていた。帆の白が、光の中に滲んで見えた。
本当のこと、と黄仁は口の中で転がした。音のない言葉として。
自分が本当のことを言えた日が、いつかあっただろうか。いや、そもそも自分にとっての「本当のこと」とは何だろう。嘘の皮を一枚一枚剥いていった先に、何かが残るだろうか。それとも皮だけで出来ていて、剥けば剥くほど小さくなって、最後には何もなくなるだろうか。
黄仁は漆の箱を手に取った。
その中には何も入っていない。ずっと空のまま、棚の隅に置いてある。何かを入れるために取っておいているわけでもない。ただ——いつか本当のことを入れる日が来るかもしれないと、そんな理由もない気持ちで、手放せずにいる。
大潮の満月が近い。
澪という女は、夫の記憶を売り続けている。千斗という少年は、声を失くして市場の真実を探している。名なしの商人は、深い目で市場に立ち続けている。そして黄仁は、嘘の海の上で、錨の重さだけを感じながら浮かんでいる。
誰もが何かを手放して、何かを手放せずにいる。
黄仁は箱を閉じて、棚に戻した。
それから今日初めて、本当のことを考えた。糸子に何かを渡す気はない。しかし自分もまた、このままでいい気はしない。嘘の才能で誰かを守り続けることと、本当のことを一度だけ口にすることと——どちらがより自分に似合うか、まだ答えは出なかった。
ただ、胸の底に温かいものが揺れていた。
波のように、繰り返しながら。