梅雨の走りとも呼べない、乾いた夕方だった。
朱雀澪は縁側に腰を下ろし、庭の石榴の木を眺めていた。まだ花の季節には遠いのに、枝の先端がほんのわずかに赤みを帯びている。毎年この時期になると、健吾がその赤を指さして、「もう咲きそうだな」と言った。澪はいつも「気が早い」と笑い返した。
その記憶が、今は輪郭だけしか残っていない。
声の質感が薄れている。健吾の声が、どんな重さで空気を震わせていたか、もはや思い出せない。市場で売り払ったのは、去年の大潮の夜だったか、それとも一回前の取引だったか。澪自身、もう正確には覚えていなかった。欠けた記憶は欠けていることさえ気づかせないまま、静かに消えていく。だから余計に恐ろしかった。
玄関先に人の気配を感じたのは、石榴の枝から目を離した瞬間だった。
表の引き戸を叩く音は二度だけ。遠慮がちでも急いた様子でもなく、ただ過不足のない二度だった。
「どなたですか」
澪が声をかけると、間を置かずに答えが返ってきた。
「白榊と申します。少々、お時間をいただけますか」
聞き覚えのない名前だった。近所づきあいの声でもなく、行商の口調でもない。澪は一瞬迷ったが、立ち上がって玄関に向かった。
引き戸を開けると、小柄な老婆が立っていた。
白地に細かな青海波を織り込んだ着物、黒塗りの杖を右手に持ち、銀の髪を丁寧に結い上げている。皺の深さに反して背筋は驚くほど真っ直ぐで、両目は薄茶色に澄んでいた。年齢を推し量ることが難しい。老いてはいるが、老いに支配されていない、そういう立ち姿だった。
老婆は澪の顔をひと目見て、静かに頭を下げた。
「朱雀澪さん。突然お邪魔して失礼いたします。わたくし、市場監査官を務めております白榊糸子と申します」
その言葉を聞いた瞬間、澪の背中を何か冷たいものが走った。
「……市場、監査官」
「はい。継ぎ接ぎ市場の取引を監査する職分です。今日は、あなたの取引記録について確認させていただきたいことがございまして」
糸子はそう言いながら、懐から一枚の名刺を取り出して差し出した。厚みのある和紙に、細い墨字で「市場監査官 白榊糸子」とだけ書かれている。住所も問い合わせ先も、何もなかった。
澪は名刺を受け取りながら、どうすべきか迷った。断る理由も見当たらず、しかし招き入れる理由も咄嗟には浮かばない。ただ、「市場」という言葉の重さが、否応なく身体に圧しかかってきた。
「……どうぞ、お入りください」
我ながら意外なほどすんなり、その言葉が出た。
糸子を座敷に通し、茶を淹れながら、澪は自分の胸の中を観察していた。恐れているのか。疑っているのか。それとも、どこかで誰かに話を聞いてもらいたかったのか。答えは出ないまま、湯飲みを盆に乗せて戻った。
糸子は畳の上に静かに座り、部屋の中を見回していた。視線が石榴の庭の方に向いたとき、その薄茶色の瞳に何かが過ぎったように澪には見えた。
「よいお庭ですね」
「亡い夫が手入れしていたものです」
「存じております」
短く、しかし確かにそう言った。澪は湯飲みを置く手を止めた。
「……何をご存知なのですか」
「取引の記録、というのはそういうものです」糸子は茶を一口飲み、静かに続けた。「市場で交わされたものは、すべて記録に残ります。あなたがこの十数年で何を売り、何を買ったか。その記録の提出と、内容の確認をお願いしたいのです」
「記録の提出、とは」
「あなたご自身の覚えていることを教えていただければ十分です。書面にする必要はありません。ただ、お話を聞かせてください」
丁寧な言葉の中に、断らせない重さがあった。澪は居住まいを正した。
「……わたしは、夫との記憶をいくつか市場で売りました。引き換えに、別の記憶の断片を買い戻した回もあります。でも、どの取引で何を渡したのか、正確には覚えていなくて」
「そうでしょうね」糸子はうなずいた。「売り払った記憶は、売った瞬間から輪郭が消えていく。それが継ぎ接ぎ市場の取引の性質ですから」
「監査官というのは、何をする方なのですか」
「市場の取引が正当に行われているかを確かめる者です。不当な取引、あるいは不正な商人による被害を調査し、必要があれば取引の無効化や市場の封鎖を行う権限を持っています」
「封鎖」という言葉が、部屋の空気を変えた。
「封鎖されると、買い戻せなくなるのですか。売ったものを」
澪の声が、思ったより小さく出た。糸子は澪をまっすぐ見た。
「はい」
それだけだった。余分な慰めも説明も、何もなかった。その潔さが、かえって糸子の言葉の真実味を増した。
「あの商人について、何か教えていただけませんか」澪は静かに続けた。「〈無名〉と呼ばれる。名前のない商人です」
糸子の指が、膝の上でわずかに動いた。
「存じております。あの者については、わたくしもずいぶん長い間、調べております」
「何が分かったのですか」
「まだ確証はありません」糸子は茶を置き、澪を見た。「ただ、一つだけ申し上げておきます。〈無名〉の取引には、客には見えていない部分があります」
澪の胸の中で、何かが軋んだ。
「見えていない部分、というのは」
「取引とは交換です。あなたが何かを渡せば、何かを受け取る。それは表向き正しい。しかし、あの商人が関わる取引には、第三の受け渡しが存在する可能性がある。客でも商人でもない、別の何かへの流出が」
縹色の少女の輪郭が、澪の脳裏をよぎった。夢の中で見た、あの水底のような青を纏った影。〈無名〉の傍らに、音もなく寄り添っていたあの姿。
「あれは……何なのですか。縹色の、子供のような」
糸子の瞳が細くなった。
「それをご覧になったのですか」
「夢の中で。でも夢とは思えないほど、はっきりと」
老婆はしばらく沈黙した。庭の方から、小さな鳥の声がした。石榴の枝がわずかに揺れ、赤みの差した先端が夕光に透けた。
「朱雀さん」
糸子は静かに、しかし明確な声で言った。
「次の市場には、どうかご注意ください。〈無名〉の言葉は嘘ではないかもしれない。しかし、真実のすべてでもない。あの者がなぜ名前を売ったのか、なぜ百年市場に縛られているのか、あなたはまだ何も知らされていないはずです」
澪は返す言葉を持てなかった。
知らされていない。その言葉が、静かに、しかし確実に刺さった。これまで澪は〈無名〉の取引を信じてきた。欠けた記憶を少しずつ買い戻すために、また別の何かを差し出す。その繰り返しの中に疑いを持ったことは、なかった。いや、持てなかった。疑えば、買い戻した欠片すらも偽物になりそうで怖かった。
「記録の提出については、また改めてお時間をいただけますか」
糸子は立ち上がり、杖を手に取った。
「はい」と澪は答えた。
「ありがとうございました」
老婆は丁寧に頭を下げ、玄関へと向かった。澪はその背中を見送りながら、最初の名刺をまだ手に持っていることに気がついた。
見えない部分。第三の受け渡し。
それが何を意味するのか、澪には分からなかった。ただ、次の満月の夜が近づいていることは知っている。潮の満ちる気配が、港町の空気の底にすでに溜まり始めていた。
縁側に戻ると、石榴の枝がまた静かに揺れていた。
健吾の声を、澪はもう一度思い出そうとした。何も聞こえなかった。その沈黙の中に、恐れと疑いと、それでも手放せない何かとが、継ぎ目のない塊になって澪の胸に沈んでいた。
名刺の墨字だけが、夕暮れの光の中でくっきりと浮かび上がっていた。