朝の霧は、いつも同じ濃さで館を包んでいる。
透が目を覚ましたのは、食堂へ向かうよう促す軽いノックの音のためだった。ドアを開けると廊下には誰もなく、ただ白いものが低く漂って、廊下の突き当たりを曖昧に溶かしていた。
夢の残滓が、まだ瞼の裏に焼きついていた。蛍の記憶だと思っていたもの——灰色の壁、泥の混じった水、呼んでも応えない誰かの背中——が、今朝は輪郭を失って、ただの色の堆積に成り果てていた。消されたのか。それとも自分の意識が勝手に変形させたのか。透には判別がつかなかった。
ダイニングは一階の東端にある。廊下を進むにつれ、食器の触れ合う音や、低く交わされる声が霧の中から染み出してくるように近づいてきた。
扉を押すと、広い室内に満ちた暖かい空気が顔に当たった。
テーブルは一枚の長い板のようなもので、十二の椅子が等間隔に並んでいた。透は入口のそばで一度足を止め、全体を見渡した。料理の匂いと、人間の体温と、何か別のもの——重さとも粘りとも形容しがたい、記憶の密度とでも言うべき気配——が室内に充満していた。
透はこの一週間で学んでいた。記憶能力者が複数いる空間では、空気そのものが変質する。それぞれが持つ記憶の断片が、見えない糸のように互いに絡まり、引き合い、時に押し退け合っている。ダイニングは館の中でも特にその密度が高かった。
席についている顔を、透はゆっくりと確認していった。
最も奥の席に座る老人が、神田 光三(こうぞう)だった。八十に届こうかという年齢で、両手の節が太く、指先に古い絵の具の染みが残っていた。彼は人が見たものの記憶を受け取り、それを絵として再現する能力を持つという話を、透は富樫礼子から聞かされていた。本人が見ていない風景を、他人の記憶だけを素材にして描く。その絵はどれも驚くほど精細で、ある批評家はかつて「記憶の彫刻」と評したらしかった。神田は粥を小さな口で静かに食べながら、窓の外の霧を眺めていた。何かを見ているのか、何も見ていないのか、表情からは読み取れなかった。
神田の隣には桐島 文江(ふみえ)が座っていた。五十代半ば、元中学校の教師だったという女性で、背筋が真っ直ぐに伸び、箸の持ち方も食器の置き方も几帳面だった。彼女の能力は「記憶の共鳴」——他者の強烈な感情記憶を無意識のうちに引き受け、それを増幅して再体験してしまう。教壇に立っていた頃、生徒たちの恐怖や屈辱の記憶が一斉に押し寄せてくることがあり、ある日の授業中に意識を失って倒れた。それが霧積館に来た最初の理由だと、礼子は語っていた。桐島は今朝、透に目が合うとわずかに会釈をした。丁寧だが近づきすぎない、測られた距離感があった。
双子は中央のあたりに隣り合って座っていた。二十代前半の、男と女。名前は遠野 湊(みなと)と遠野 汐(しお)。二人は記憶を互いに同期させる能力を持つらしく、片方が見たものや感じたことをもう片方が追体験できるという。だが透が奇妙に思ったのは、二人が食事の間、一度も視線を交わさないことだった。隣に座っていながら、互いを完全に無視しているように見えた。それが能力ゆえの過剰な親密さへの反動なのか、あるいは今何か深刻な断絶が生じているのか、透には判断できなかった。汐は味噌汁の椀を両手で持ったまま動かさずにいて、湊は箸を置いてパンを手でちぎっていた。二人の間の空白は、ただの沈黙ではなく、何か意志を持って置かれているように感じられた。
他にも顔と名前が一致しない患者が数人、思い思いの様子で食事をしていた。四十代らしい無口な男が窓際に一人。長い髪を後ろで束ねた若い女性が、トーストに丁寧にバターを塗っていた。老婆が一人、ほとんど食べずに手をテーブルの上に置いたまま、虚空を向いていた。
透は自分の席に着き、配膳されたトレーに視線を落としながら、頭の中で人数を数えた。
一、二、三——。
七、八——。
十一、十二。
透は顔を上げた。もう一度、室内を見渡した。テーブルの椅子は十二脚。そして今、すべての椅子に人が座っている。全員が揃っている、ように見える。
だが透の胸の中で、小さな棘が引っかかった。
霧積館には十三の病室がある。透が入院した際、案内をしてくれた礼子がそう言っていた。廊下の端まで歩いて数えた時、透自身も確かめていた。一番から十三番まで、ドアが等間隔で並んでいた。
ならば、十三番目の部屋の住人は、今どこにいるのか。
透はさりげなく礼子の席を探した。彼女は食堂の隅に小さなテーブルを持っており、いつも少し離れた場所から全体を観察しながら食事をする。記録係として「外」にいるために、そうしているのだと言っていた。礼子は今朝も同じ位置に座っており、手元にノートを開いていた。透と目が合うと、彼女は一瞬だけ視線を止め、それからノートに目を戻した。
透は咀嚼しながら考えた。十三番目の部屋。誰も話題にしない。
昨日、廊下を歩いた時、十三番のドアの前だけ、わずかに空気が違うような気がした。錯覚だと思っていた。だが今、こうして人数を数えてみると、あの感覚が急に重みを持ち始める。
食事が半分ほど進んだころ、透はダイニングの扉が開く気配を感じて振り返った。
道上蛍だった。
昨夜、霧の中で並んで立っていた少年が、今朝は食堂の空気の中に無音で滑り込んできた。彼は誰とも目を合わせないまま、空いていた椅子に座り、配膳係が差し出したトレーを受け取った。その動作はすべて、静水のように淀みがなかった。
蛍が座った瞬間、透には奇妙な感覚があった。室内の記憶の密度が、わずかに変化したような。正確には増えたのではなく——薄くなった、と表現すべきかもしれなかった。蛍の周囲だけ、空気が少し軽くなっている。消去の能力を持つ者の傍らは、こういう感触がするのかと透は思った。
碓氷院長の姿は、今朝もなかった。
食事の間、院長が食堂に現れることは一度もないと、礼子から聞いていた。院長室で一人食事をとる習慣があるらしく、患者と同じテーブルにつくことを避けているとも、単に多忙なのだとも言われていた。だが透には、その不在がだんだんと意味を帯び始めているように思えた。患者たちを慈愛深く見守るという院長の評判と、患者の食卓に決して現れないという事実の間に、小さな裂け目があった。
食事が終わりかける時間に、神田 光三が静かに立ち上がった。老人は透に向かって、唐突に言った。
「君は、何かを見ている顔をしていないね」
透は答えに迷った。
「見ているものが、自分のものかどうか、わからなくなっているんだ」と神田は続けた。断言する口調だったが、責めているふうではなかった。「私も若い頃、そうだった。他人の見た景色ばかり描いていたら、自分の目で見たものが何だったか、わからなくなってしまった」
老人はそれだけ言うと、杖をついてゆっくりとダイニングを出ていった。
透はしばらく、空になったトレーを前にして動けなかった。
十二人のテーブル。十三番目の部屋。
食堂の窓の外では、霧が変わらず白く、深かった。
透はふと、礼子のノートに視線を向けた。彼女は今朝、いつもより早くページをめくっていた。何を書き留めているのかを、透は初めて強く知りたいと思った。