霧は朝よりも深くなっていた。

 窓の外では白濁した空気が杉の梢をほとんど呑み込み、療養院の石畳さえ数歩先から消えてしまっている。そういう日に霧積館は、まるで世界から切り離された浮き島のように見える。透はその光景を、もはや自分の感覚で見ているのか三島誠一の目を通して見ているのか、判じることができなくなっていた。

 面談室の丸テーブルに向かい合って座る神田孝三は、白髪交じりの眉をひそめたまま、しばらく窓の霧を眺めていた。六十をいくつか越えたその顔には、画家特有の、光の粒子を皮膚の奥まで染みこませてきたような質感がある。目尻の皺が深く、笑う時よりも考え込む時のほうが表情豊かに見えた。

 「神田さん」と礼子が静かに促した。「あなたが証言をいったん取り下げ、今日改めて私たちを呼んだのは、前回お話しにならなかったことがあったからですね」

 神田は目を窓から外して、テーブルの木目に落とした。

 「言いにくいことというのはな」と彼は低い声で言った。「言いにくいから長く胸の中で飼い続けると、いつの間にか形が変わってしまう。三島のことを話そうとするたびに、私は自分の記憶が正しいのかどうか確かめたくなった」

 透は黙って聞いていた。体の奥でうずくものがある。三島の輪郭が、霧の中の杉の木のように、ぼんやりと立ち現れてくる感覚。

 「三島は絵を描かなかった」神田は続けた。「それは知っているかね。私のアトリエに来て、何時間もキャンバスの前に立っていても、筆を取らなかった。ただ見ていた。色を見ていた。私が何を描いているかより、絵の具の层が作る偶然の形を、じっと追っていたんだ」

 礼子の手が手帖の上で止まった。

 「三島は言ったよ」神田はそこで初めて透を真正面から見た。「色には記憶がある、と。ある色を見ると、自分のものでない誰かの記憶が勝手に湧き上がってくる、と。あの男は受け取った記憶を自分の中で整理できなくて苦しんでいた。それはあんたと同じだな、瀬川くん」

 透は小さく息を吸った。同じ。その一言が鋭く刺さる。三島誠一と自分が同じ、という言葉は以前なら反射的に否定していたはずなのに、今は素直に腹に落ちてしまう。それ自体が、すでに自分の中で何かが変化していることの証拠だった。

 「三島が院長に記憶を預けていたことを」礼子が慎重に言葉を選んで言った。「あなたはご存知だったのですね」

 沈黙が一枚の薄い氷のように場に張った。

 神田は膝の上で両手を重ね、目を伏せた。

 「知っていた。三島本人から聞いた。二年前の冬だ」

 透は身を乗り出した。

 「どういう形で話してくれたんですか」

 「夜遅く、アトリエに来た。かなり飲んでいたな。三島はふだん酒を飲まない男だったから、私は驚いた。彼は椅子に座って、しばらく乾いたキャンバスを眺めてから言ったんだ。神田さん、私はとんでもないことをしてきた人間だ、と」

 霧が一層濃くなった気がした。透の内側で、三島誠一の声のようなものがかすかに鳴った。聞こえるはずのない声なのに、その言葉には聞き覚えがある。

 「三島が語ったことを」礼子が言った。「できる限り正確に、教えていただけますか」

 神田はゆっくりとうなずき、目を閉じた。まるで過去の夜へ戻っていくように。

 「三島には、若い頃に犯した罪があった。具体的な中身は私には言わなかった。ただ、その罪に関わる記憶を、能力を使って碓氷先生に複製して預けた、と言った。完全な複製じゃない。要所だけを。いわば証拠のようなものだ」

 「碓氷院長に」と透は呟いた。

 「そうだ。三島の論理はこうだった。自分の罪の記憶を誰かに保持させておけば、自分は殺されない。その記憶が外に出ることを恐れている者がいる限り、三島が生きていることが、その者にとっての安全弁になる。三島が死ねば、碓氷先生の持つ記憶が証拠として浮上する可能性がある。だから誰も三島に手を出せない」

 礼子の筆が手帖の上を滑る音だけが室内に響いた。

 透はしばらく黙っていた。構造が頭の中で組み上がっていく。三島は自分を守るために、罪の記憶を人質にした。碓氷に預けることで、自分の死を高コストにしたのだ。生命保険。あるいは核抑止のような均衡。生きていることが双方にとって利益になるよう設計された、歪んだ均衡。

 「でも」と透は言った。「その仕組みが壊れた」

 神田がゆっくりと目を開けた。

 「壊れた。碓氷先生が三島に何かを告げた。私には内容まではわからん。ただ三島は、その後から別人のように変わった。あの静かな、何かを抱えながらもどこかで折り合いをつけていたような表情が、なくなった」

 透の脳裏に、第七話で感じ取った三島の残像が蘇った。笑顔の裏にある何か。あの時透が受け取ったのは「安堵」ではなかった。三島は笑いながら、常に何かと引き換えに自分の安全を維持していた。その引き換えが機能している間だけ、あの笑顔は成立していたのだ。

 「碓氷先生は」礼子がゆっくりと問いを立てた。「記憶を返したのでしょうか。それとも、失ったのでしょうか」

 神田の表情に、初めて痛みに似たものが滲んだ。

 「それが、わからん。先生は今や私の問いに答えてくれない。あの方の記憶の中に何が残っているのか、あるいは何も残っていないのか。それを確かめる術が私にはない」

 透は今、碓氷玄という人物の像が霧の中でゆっくりと形を変えていくのを感じた。慈愛深い老医師という輪郭が、別の何かに上書きされようとしている。被害者と旧知だったという事実。三島の罪の記憶を預かるという役割。そして今、その記憶が消えている可能性。

 消えているとすれば、道上蛍の名前が浮かぶ。

 だがそれを口にする前に、神田が再び口を開いた。

 「三島は私にこう言った。神田さん、私はいつか赦されたいと思っているんだ、と。でも赦されるためには、まず自分が何をしたかを、きちんと誰かに見てもらわなければならない。碓氷先生だけでは足りない。先生は記憶を持ってはいても、私を裁くことができない。私を赦すことも、できない、と」

 透の喉の奥で何かが詰まった。

 赦されたかった。

 その言葉は、透の知っている三島の記憶の中にある言葉ではなかった。なのに、初めて聞いた言葉ではないような気がした。どこか遠い場所から、霧を越えてずっと届き続けていたような。

 礼子が手帖から顔を上げ、透を見た。その目に、ふだんの冷静さとは異なる、何か静かな感情が揺れていた。

 「瀬川さん」と彼女は言った。「あなたは今、三島さんの声が聞こえましたか」

 透はすぐに答えることができなかった。

 聞こえた、とも言えなかった。聞こえなかった、とも言えなかった。ただ確かなのは、三島誠一という人間が、自分の中でもはや他人ではなくなっているということだ。記憶の輪郭が溶け、透の輪郭と混ざり合いながら、ひとつの問いになっていく。

 罪とは何か。赦しとは誰が与えるものか。

 そして、誰かの罪の記憶を体の中に飼い続けることは――それ自体が、ひとつの罰なのではないか。

 「もうひとつだけ、教えてください」と透はようやく言った。「三島が碓氷先生に記憶を預けた時、証人はいましたか」

 神田は静かに首を振った。

 「いない。密約だ。ふたりだけの」

 透は立ち上がりながら、窓の霧を見た。白く深い霧の向こうに、何かがある。まだ見えない。けれど確かに、そこにある。

 それが三島の最後の言葉に向かう道だということを、透は今初めて、体の芯で理解し始めていた。

霧の中の十四番目の証人

30

第九の証言――孤独な画家

朧月 汐音

2026-06-12

前の話
第30話 第九の証言――孤独な画家 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版