礼子の部屋は、霧積館の東翼の突き当たりにある。他の部屋よりも天井が低く、窓が細い。昼でも薄暗いその空間に、古びた整理棚と証言録の束だけが静かに並んでいる。透が扉の前に立ったとき、すでに中に人の気配があった。

 ノックをすると、礼子の声ではなく、低い老人の声が応えた。

「開いている」

 透は一瞬、足を止めた。引き戸を引くと、礼子の椅子に碓氷玄が座っていた。机の上には証言録の一冊が開かれ、老医師の大きな手がその表紙を静かに押さえていた。礼子の姿はなかった。

「礼子さんは」と透は聞いた。

「薬を取りに行ってもらった。十分もあれば戻る」碓氷は言った。「その前に、少し話をしたかった。君と、二人で」

 老医師の声は穏やかだった。しかしその穏やかさは、凪いだ湖面のそれに似ていた。何が沈んでいるか、覗いても見えない。透はゆっくりと部屋に入り、礼子がいつも使う丸椅子を引き寄せて、碓氷の向かいに腰を下ろした。

「証言をするつもりですか」と透は言った。

「もうとうにすべきだったかもしれない」碓氷はそう答え、証言録から視線を上げた。目の縁が赤く、眠れていないのだとわかった。「ただ、録の前に君に直接伝えておきたいことがある。礼子に書き取られる前に」

 透は黙って待った。

「三島は古い友人だった」碓氷は言った。「四十年近く前、私がまだ大学で研究をしていた頃に出会った。あの男は当時から特別だった。記憶を音に変えることができた。聞いた音を映像として再生できた。そういう能力が、いくつか混在していた」

「知っていました」透は言った。「霞さんから聞きました」

「霞も、三島から多くを受け取った」碓氷は静かに続けた。「この館で最も深く三島と関わっていたのは、霞だったかもしれない。私を除けば」

 老医師の言葉は淀みなかった。しかし透には、その淀みのなさそのものが不自然に感じられた。整えられすぎた話は、どこかで折り畳まれている。

「三島さんは、あなたの研究データを外部に持ち出そうとしていた」透は言った。岡部から聞いた言葉を、あえて直截に投げた。

 碓氷の表情はほとんど動かなかった。ただ手の甲の皺が、わずかに深まったように見えた。

「そうだ」と老医師は認めた。「私が知ったのは、三島が死ぬ三日前だった」

「何のために」

「それが、私にも完全にはわからない」碓氷は言った。「三島は私に一度だけ、直接話しかけてきた。夜、廊下で。あの男はこう言った。『玄、おまえのやっていることは、いつか誰かを壊す』と」

 透の喉の奥で、何かが詰まった。それは三島の声ではなかった。しかし三島が言いそうな言葉だ、と感じた。自分の中のどこかが、そう反応した。

「私は否定しなかった」碓氷は続けた。「なぜなら、三島の言葉には一分の正しさがあったからだ。記憶能力を研究する過程で、患者に負荷がかかることは避けられない。私はそれを知りながら続けてきた。しかし壊すためではない。理解するために、だ」

「理解して、どうするつもりなんですか」

 老医師はしばらく沈黙した。窓の外に霧が流れ、細い光が一瞬、室内を白く染めた。

「記憶を巡る苦しみを、癒すためだ」碓氷は静かに言い切った。「それだけだ。最初からそれだけが目的だった」

 透はその言葉を聞いて、何かを信じそうになった。そしてその「信じそうになる」感覚を、注意深く観察した。碓氷の声には確かな重さがある。四十年の研究と、数えきれない患者たちの記憶を傍で見てきた人間の、疲弊した誠実さのようなものが滲んでいた。

 だが、透はすでに知っていた。誠実な人間が、誠実な目的のために、人を死に追いやることがある。

「三島さんの死に、あなたは関わっていない」透は言った。問いではなく、確認として。

「殺してはいない」碓氷は答えた。「しかし、関わっていないとは言えない。私の研究が三島を追い詰めたことは事実だ。あの夜、三島が最後に何を感じたか、私には知る術がない。それが私の、最も重い罰だ」

 廊下の奥で、足音が聞こえた。礼子が戻ってくる音だ。碓氷は証言録を閉じ、静かに立ち上がった。その背中は、透が想像していたよりずっと小さかった。肩の骨が、白衣の布地を薄く押し上げている。

「一つだけ聞かせてください」透は立ち上がりながら言った。「岡部先生が見た、翌朝に部屋から持ち出したもの。何だったんですか」

 碓氷は振り返った。その目に、初めて複雑な色が浮かんだ。

「三島が最後に書いたものだ」老医師は静かに言った。「録音ではなく、手書きで。私には宛てられていなかった。しかし、私が預かるべきだと判断した」

「誰に宛てて」

 扉が開いた。礼子が薬瓶を手に立っていた。その目が、透と碓氷の間で一瞬止まった。

「それは」碓氷は礼子に軽く会釈してから、透に向き直った。「証言録に書いてもらおう。礼子に見届けてもらった方がいい」

 老医師は透の傍らを通り過ぎ、礼子の向かいの椅子に座った。礼子は何も言わずにペンを取り、新しいページを開いた。透は丸椅子に戻りながら、碓氷の横顔を見つめた。

 証言が始まろうとしていた。しかし透の頭の中には、一つの問いだけが残っていた。

 三島が最後に書いたものは、誰に宛てられていたのか。

 碓氷が「預かるべきだ」と判断したほど、それは深く、そして危うい何かであるはずだった。そしてそれは今、この館のどこかにある。老医師の白衣の内ポケットか、あるいは誰も開けない引き出しの奥か。

 霧積館の外では、霧が相変わらず山を包んでいた。どこにも逃げ場はなく、どこにも真実の輪郭は見えない。透は静かに息を吸い込み、礼子の手が証言録の上を滑り始めるのを待った。

 碓氷玄の声が、低く、穏やかに、部屋の空気を満たし始めた。

霧の中の十四番目の証人

28

第八の証言――碓氷玄

朧月 汐音

2026-06-10

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第28話 第八の証言――碓氷玄 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版