霧は夜明け前が最も深い。
富樫礼子はそのことを、霧積館で過ごした七年のあいだに身体で覚えた。窓の外は白濁した闇で、ガラスに額を当てると冷気が頭蓋の奥まで染みてくる。午前四時。手帳の新しいページを開き、礼子はペンを走らせた。
*第五の証言を記録する前に、私自身が混乱していることを認めておかなければならない。*
昨夜、瀬川透から聞いた霞の告白が、まだ胸の内で渦を巻いていた。碓氷院長の研究。記憶の移植。三島が完成形として利用された疑い。礼子が七年かけて記録してきた「日常」の裏に、そんな暗渠が流れていたとすれば、自分の書き留めてきたすべてが表層の泡に過ぎなかったことになる。
扉を叩く音がした。
「村瀬さんですか」と礼子が問うと、「ああ」という低い一声が返ってきた。
村瀬巌は霧積館の中でもとりわけ無口な男だった。五十がらみ、日焼けした首筋、作業着の袖口にいつも機械油の染みがある。若い頃は建具師だったと聞いていたが、本人から語られたことは一度もない。記録係の礼子に「証言をお願いしたい」と透が申し入れたとき、村瀬はしばらく黙って自分の手のひらを見つめ、それからただ「明日の朝」とだけ答えたという。
礼子が椅子を勧めると、村瀬は腰を下ろさずに窓際に立った。霧の中に溶けかけた松の梢を眺めながら、ゆっくりと口を開く。
「俺の話は、信じてもらえないかもしれん」
「信じるかどうかは後で考えます。まず聞かせてください」
礼子がそう言うと、村瀬はわずかに口の端を動かした。笑ったのか、それとも諦めたのか、判別がつかない表情だった。
透は部屋の隅で壁に背を預けていた。昨夜の霞との話以来、その目には奇妙な静けさが宿っている。溢れかけていた何かを、かろうじて堰き止めているような静けさだ。礼子はそれが少し心配だったが、今は村瀬の言葉に集中しなければならなかった。
「三島さんが死んだ翌朝、院長に頼まれて扉の修繕をした。鍵穴が歪んでいたから。マスターキーで無理に開けたとき、内側の施錠機構が傷んだんだ」
「それは知っています」と礼子は言った。「あの日の記録に書いてあります」
「そのとき、ドアノブを触った」村瀬は自分の右手を持ち上げ、指先を見つめた。「そうしたら、入ってきた」
透が壁から背を離す気配がした。
村瀬の能力は館の中でも特殊な部類に属する。彼は物体に残留した「接触の記憶」を読み取ることができる。人から人へ流れる記憶ではなく、触れられた物体の側に堆積する、薄い地層のような痕跡。建具師として無数の扉や柱に触れてきた彼が最初にその異変に気づいたのは、三十代の後半だったという。客の家の古い柱を削ったとき、かつてそこにもたれた子供の泣き声が手のひらに流れ込んできた。
「ドアノブには、三つの記憶が残っていた」
礼子のペンが走る。
「一番古い層は、清掃の記憶だった。誰かが雑巾で拭いた感触。二番目は三島さん本人のもの。何度も繰り返し握った跡がある。内側から、だ。鍵を回す前と後、両方の感触が混じっていた」
「それは自然なことですね」と透が言った。「自分の部屋なんですから」
「そうだ」村瀬は頷く。「問題は三番目の層だ」
沈黙があった。霧積館は今、風もなく、ただ霧だけが時間をかけて窓ガラスを濡らしていた。
「三番目の記憶は、外側からだった。誰かが廊下からノブを握った痕跡が、三島さんの記憶の層より浅い位置に残っていた。つまり、三島さんが内側から鍵を掛けた後に、外から誰かが触れている」
「それは」礼子は声が掠れるのを感じた。「つまり、密室が成立した後に、外から誰かがノブを触ったということ?」
「そうじゃない」村瀬は静かに首を振った。「層の順序はもっと複雑だった。俺の読み方が正しければ、だが。外からの接触は、鍵が閉まる直前の三島さんの感触と、ほとんど同時だった。重なっていた」
透が鋭く息を吸う音が聞こえた。
「同時、というのは」
「三島さんが内側から鍵を閉めようとしたその瞬間に、外から誰かも同じノブに触れていた。だからなのか、記憶の層が混ざり合って判然としない部分がある。はっきり言えるのは、施錠の瞬間に、扉を挟んで両側に人がいた可能性が高いということだ」
礼子は手帳に書きつけながら、思考が二つの方向へ引き裂かれていくのを感じた。
ひとつの解釈。外にいた者は、扉が閉まる瞬間にノブを握り、何かをしようとした。あるいは、止めようとした。
もうひとつの解釈。外にいた者は、ただ聞き耳を立て、確認しようとしていた。三島が死ぬことを、知っていた。
「その外側の記憶、誰のものか分かりますか」と透が問うた。声が震えていた。
「記憶の層から人物を特定するのは難しい」村瀬は静かに言った。「感情の断片なら分かる。その手が何を感じていたか、という程度なら」
「それを教えてください」
村瀬はしばらく黙った。窓の外の霧が、うっすらと白み始めていた。夜明けが近い。
「怖かったんだと思う」ようやく村瀬は言った。「怯えていたのか、それとも後悔していたのか、区別がつかない。ただ、その手はノブを強く握っていた。力が入っていた。何かを決意するような力の入れ方だった」
「決意」と透が繰り返す。
「そして、手は離れた。扉は開かれなかった」
礼子はペンを置いた。
密室だと思われていた三島の部屋に、別の解釈が生まれようとしていた。三島は確かに内側から鍵を閉めた。それは事実だ。しかし施錠の瞬間、外に誰かがいた。その者は扉を開けることができたかもしれない。しかし開けなかった。
「村瀬さん」透が一歩前に出た。「その話を院長にはしましたか」
「していない」村瀬は短く答えた。「院長には頼まれたとおり扉の修繕だけした。修繕が終わったとき、ノブは新しいものに取り替えられた」
「取り替えられた」礼子は思わず声に出した。
「院長の指示だった。歪みがひどいから全部交換しろと。だから古いノブはもうない」
証拠は消えている。村瀬の記憶の中にだけ、それは残っている。
透は何も言わなかった。しかし礼子には分かった。透の中に吸収された三島の記憶が、今この瞬間、何かに共鳴して揺れているのだ。ドアノブの外側にいた手。決意を込めて握り、そして離した手。それが誰のものであるかを、透はひょっとしたら、もう感じ始めているのかもしれない。
「もうひとつだけ聞かせてください」礼子はペンを取り直した。「その手の感触に、何か特徴はありましたか。傷とか、質感とか」
村瀬は目を細めた。記憶の中の感触を辿るように、自分の右手の指先を反対の手でそっと押さえる。
「左利きだった」
一言だけ言って、村瀬は椅子から立ち上がった。「これだけ話せれば十分だろう」と言い残し、軋む廊下を歩き去っていく。足音が遠ざかり、そして静寂が戻った。
礼子と透は、しばらく同じ沈黙の中に座っていた。
左利き。礼子は霧積館の住人たちの顔を、ひとりひとり頭の中で確認していく。そして、ある一人の人物で止まった。
透も同じ場所で止まっているはずだった。なぜなら礼子が振り返ったとき、透の顔からは先ほどまでの静けさが消えていたからだ。代わりにそこにあったのは、知りたくなかったものを知ってしまった者の、あの表情だった。
「富樫さん」透は掠れた声で言った。「道上くんは、左利きです」
霧が、窓ガラスをゆっくりと伝い落ちていた。