朝が来た、と糸子が気づいたのは、テントの隙間から差し込む光ではなく、奇妙な静けさのせいだった。
縫界の夜明けはいつも音から始まる。古い記憶布がゆっくりとほどけていく繊維音、露が布地に落ちるかすかな弾き音、そして何より、リィナの寝言。彼女は眠りながらでも喋る癖があった。値段交渉の夢でも見ているのか、「そいつは安すぎる」とか「半分でいいから全部よこせ」とか、まるで意味をなさない言葉を夜通し呟いていた。
その声がない。
糸子は毛布を払いのけて起き上がった。リィナが使っていた寝床には、きれいに畳まれた布だけが残されていた。丁寧に折り畳まれた様子が、かえって不自然だった。リィナはいつも寝具を蹴散らして眠る人間で、朝には毛布が部屋の隅まで転がっているのが常だったからだ。
「公爵」
糸子が呼ぶと、入り口側で眠っていたはずの青年はすでに目を開けていた。眠っていたのかどうかすら定かでない、いつもの静かな目だった。
「気づいていた?」
「夜明け前に出て行った」
淡々とした答えだった。糸子は一瞬、言葉に詰まった。
「……止めなかったの」
「止める理由がなかった」
公爵は身を起こしながら、さりげなく目を逸らした。その横顔の、わずかに結ばれた口元を、糸子は見逃さなかった。彼なりの迷いが、そこに縫い付けられていた。
テントを出ると、廃園の朝霧が低く漂っていた。昨夜オリカと別れたあと、三人は庭園の外れにある古い東屋を宿にしていた。石畳の隙間から記憶草が伸び、踏むたびに誰かの忘れた午後の匂いがした。
リィナの荷物は半分ほど消えていた。行商の道具や、いくつかの記憶布の見本。しかし旅の地図だけはそこに残されていた。
糸子がそれを広げると、羊皮紙の表面に縫い付けられた経路が光を受けて浮かび上がった。辺境の廃園から北西へ延びる縫い道。その先に、まだ地図上では名前しか見たことのない場所があった。
縫い目の町。
複数の縫界の縫合線が交差する交点に発達した町で、記憶布の取引が最も活発に行われると聞いていた。ガルデの商圏も及んでいると、リィナ自身が以前口にしていた。
地図の端、余白の部分に何かが縫い付けてあった。糸子は顔を近づけて読んだ。細かく不揃いな文字が、ほつれかけた糸で刻まれていた。まるで急いでいたかのように、あるいは迷いながら書いたかのように。
――先に行く。次の縫い目の町で会おう。
それだけだった。
糸子はしばらく、その文字を見つめていた。針と糸を持つ自分の指先が、じわりと熱くなった。感情が乗り移るいつもの感覚。怒りなのか、心配なのか、自分でも判断がつかなかった。
「勝手すぎる」
呟いた声は、思ったより低く出た。
「そうだな」
隣で地図を覗き込んでいた公爵が、珍しく即座に相槌を打った。
「でも」と糸子は続けた。「理由がある。あの子には絶対、理由がある」
沈黙。
「……根拠は」
「ない。でも分かる」
公爵は答えなかった。否定もしなかった。
糸子はリィナのことを考えた。出会ってから今日まで、彼女は常に先を読んでいた。飄々とした口調の裏で、何かを計算し続けていた。縫界の崩壊を誰よりも恐れていると、糸子はずっと感じていた。それはオリカの言葉より前から、リィナの笑顔の奥に見えていたものだった。
だから今回の行動も、きっと無意味ではない。
そう思おうとしながら、しかし糸子の胸の奥には、もっと単純な感情が居座っていた。
寂しい。
それだけだった。昨日まで隣にいた人間が今日はいない。その単純な事実が、予想以上に鋭く刺さっていた。リィナは賑やかで、うるさくて、気まぐれで、時々嘘をついていたかもしれない。それでも彼女がいると、旅の空気が違った。
公爵と二人になった東屋は、静かすぎた。
「出発しよう」
公爵が言った。余計なことは何も付け加えなかった。糸子はそれを少しだけ、ありがたいと思った。
*
縫い道を歩きながら、糸子はずっと地図の文字を思い返していた。
ほつれた糸で縫い付けられた文字。リィナはいつも道具を丁寧に扱う。縫い目が乱れることを嫌う。それなのに、あの文字は明らかに急いでいた。手が震えていたのかもしれない。
なぜ告げずに行ったのか。なぜ夜明け前に。
そしてなぜ、縫い目の町なのか。
「ねえ、公爵」
「何だ」
「リィナが縫い目の町に先行する理由、何か心当たりある?」
公爵は少し間を置いた。
「ガルデの動きを先に掴もうとしているか」と彼は言った。「あるいは、俺たちに掴まれたくない何かがあるか」
「後者だったら?」
「後者でも追う。どちらにしろ行き先は同じだ」
糸子は歩きながら、その言葉の冷たさと、その冷たさの奥にある何かについて考えた。公爵は感情を切り捨てているように見えて、実は切り捨てる感情を持っていない場所だけを喋る。それが彼の誠実さだと、最近ようやく分かってきた。
道の両脇に、古い記憶布の残骸が積み重なっていた。かつて誰かの家だったもの、庭だったもの、祭りの光景だったもの。色あせて形を失った布の山が、延々と続いた。廃園の外縁部は特にひどく、縫界の崩壊がここから始まっているようにも見えた。
糸子は歩きながら、一枚の布を拾い上げた。手のひらほどの大きさ。何が縫われていたか分からないほど色が抜けていたが、端の部分に小さな刺繍の跡があった。花か、鳥か。
針と糸が、指先で反応した。
残っている。まだここに、何かが残っている。
糸子はその布をそっとポケットに仕舞った。理由は分からなかった。ただ、捨てていけなかった。
*
昼を過ぎた頃、縫い道が一度大きく折れ曲がる場所に出た。道標の柱が立っていて、そこに縫い付けられた方向板には、いくつかの地名が記されていた。
縫い目の町まで、二日。
糸子はその文字を読んで、ふと立ち止まった。
「二日か」
「急げば一日半で着く」
「急ぐ?」
「リィナより遅く着く理由はない」
糸子は少し笑った。公爵はそういうことを言う。感情の言葉ではなく、行動の言葉で、感情と同じことを言う。
道標の柱の根元に、何かが刺さっていた。
小さな針だった。
糸子はしゃがんでそれを見た。リィナが使う特徴的な針だった。先端が少し曲がっていて、持ち手の部分に赤い糸が一巻き結わえてある。旅の目印として使う彼女の習慣を、糸子は知っていた。
これはメッセージだ。
先を急いでいるが、道は間違っていない。あるいは、待っている。あるいは、来い。
針一本に込められた言葉は、ほつれた文字より雄弁だった。
「リィナは」と糸子は言った。「ちゃんと私たちに来てほしいと思ってる」
公爵は答えなかった。ただ、それ以上急かさなかった。
糸子は針を慎重に抜いて、自分の針山に刺した。彼女の針が、一本増えた。
夕暮れが縫界を染める頃、糸子はまだリィナの空席を感じていた。賑やかさの輪郭が、隣に残像のように漂っていた。怒りは薄れ、心配だけが濃くなっていた。
縫い目の町で、彼女は何を待っているのか。何を探しているのか。そして何から、二人を遠ざけようとしているのか。
答えは二日後にある。
糸子は歩き続けた。針と糸が、胸の中で静かに熱を持っていた。