記憶の燃える匂いがした。

 正確には燃えているわけではない。ほつれた記憶布が空気に溶け込む時、縫界ではこういう匂いが漂う——焦げた砂糖に似た、甘くて苦い、どこか懐かしい匂いが。糸子はその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、足元に散らばった廃園の記憶布の断片を見つめた。

 縫守の小屋の内側は、すでに半分が戦場になっていた。

 ガルデ商会の縫い師たちが撃退された直後、追加の手下が二人、軋む扉を蹴破って踏み込んできた。先ほどの三人より体格が大きい。腰に下げた鋏は刃渡りが長く、ただの道具ではなく武器として研がれているのが見てわかった。

「オリカを連れていく。邪魔するなら縫い消す」

 低い声で言い放った男の手に、黒ずんだ記憶布の束が握られていた。それを剥ぎ取って縫い込まれれば、存在そのものが上書きされる。縫界での最悪の暴力だと、糸子は旅を続ける中でようやく理解していた。

 オリカが静かに立ち上がろうとしたのを、公爵が片手で制した。

「座っていろ」

 声に感情はなかった。しかしその一言は、小屋の中の空気を一瞬だけ固めた。

 糸子は息を吸った。

 指先が疼く。いつもそうだ——感情が昂ると、まず指先が疼く。針を求めるように、糸を求めるように、手の内側がざわざわと騒ぎ立てる。ポーチの中の針入れに触れると、それだけで少し落ち着いた。

 落ち着いた、のではなく——集中した、というほうが正確かもしれない。

 周囲を素早く見回す。床に散乱している記憶布の欠片。廃園から拾い集めたものが、先ほどの戦闘で辺りに撒き散らされていた。色褪せた青。薄れた茶。端がほつれた白。どれも古い記憶を孕んでいる、使い古しの布地だ。

 でも。

 糸子の手が動いていた。気づいた時には、もう動いていた。

 床にしゃがみ込んで、三枚の記憶布の断片を引き寄せる。針を抜く。糸を張る。感情がそこに流れ込む——恐怖ではなく、守りたいという気持ちが。オリカを。公爵を。この小屋の中にある、まだ消えていない記憶を。

 縫う。

 縫い目が走るたびに、布の端から微かな光が滲んだ。廃園の記憶が呼応している。忘れられた庭の景色、枯れた泉の音、誰かが踏んだ石畳の感触——それらがほんの一瞬だけ布の中で息を吹き返し、糸子の指を通して縫い合わさっていく。

 男たちが動いた。

 公爵が前に出た。コートの裾が翻る。その動きは静かで、しかし迷いがなかった。男の一人が鋏を振り上げた瞬間、公爵は自分のコートの内側に手を差し込んだ。

 糸子は見た。

 公爵が自分の脇腹の縫い目に指をかけた。そこには他者の記憶布が縫い付けられている——彼が存在を保つために集めた、他人の記憶の切れ端。それを一枚、引き抜いた。

 引き抜かれた記憶布は、鋏の刃に巻きついた。

 金属が布に阻まれる奇妙な感触があったと思う間もなく、公爵の肘が男の手首を打ち、鋏が床に落ちた。もう一人が背後から組みかかろうとした。公爵は振り向かなかった。ただ腕を後ろに伸ばし、また別の縫い目から記憶布を引き抜いて、男の足に絡めた。

 二人が体勢を崩したその瞬間——

「伏せて!」

 糸子が叫んだ。

 縫い上がったばかりの盾を、両手で掲げた。三枚の記憶布を重ねて縫い合わせた粗末な盾。継ぎ接ぎだらけで、端がほつれていて、とても武器とは言えない代物。けれど糸子が込めた感情は本物だったから——それは確かに、盾として在った。

 男の一人が記憶布の束を投げつけた。上書きのための黒い布。それが盾に触れた瞬間、廃園の古い記憶が弾いた。まるで布が意思を持ったかのように、黒い束はただの布切れとなって床に落ちた。

 沈黙が広がった。

 二人の男は互いに目配せし、そして小屋から走り出た。追わなかった。追う必要もなかった。

 糸子は腕を下ろした。盾が、ほろほろと解けていく。縫い目が緩み、三枚の布はまた別々の断片に戻っていった。廃園の記憶が、静かに眠りに就くように。

「……できた」

 自分でも信じられない声が出た。

 リィナが口笛を吹いた。「やるじゃない、糸子。本当にやっちゃった」

 オリカが椅子に座ったまま、静かに糸子を見ていた。その目に何が宿っているのか、糸子にはまだ読み取れなかった。

 問題は、公爵だった。

 糸子が振り向いた時、公爵は壁に片手をついて立っていた。立っている、けれど——姿勢が、少し歪だった。いつものあの、どんな状況でも乱れない静けさが、今は微かにほころびている。

「公爵」

 近づいた。コートの内側が見えた。

 縫い目が増えていた。

 引き抜いた記憶布の跡に、新しい縫い目が走っている。体が自動的に修復しようとしているのか、それとも誰かが縫い直したのか——どちらでもなく、ただ跡が残っているだけなのだと、糸子は直感的に理解した。引き抜くたびに、傷になる。縫い目が増えるということは、消えた記憶が増えるということだ。

「……見るな」

 公爵が言った。声は平静を装っていたが、いつもより一音低かった。

「見てる」

 糸子は引かなかった。「痛いの」

「縫人に痛覚はない」

「そういう話してない」

 沈黙があった。公爵が壁から手を離して、ゆっくりと向き直った。その顔には何も書かれていなかった。表情を持たないのではなく、表情を縫い込まれていないのだと糸子は思う。それでも——目だけは、いつも少し、何かを語っている気がした。

「二枚だ」

 公爵が言った。

「二枚、使った。それだけのことだ」

「それだけって」

「代替はいくらでもある。廃園はまだたくさんあるだろう」

 糸子は言い返したかった。でも言葉が見つからなかった。なぜ言葉が見つからないのか、その理由も、まだ言葉にできなかった。

 かわりに、手を伸ばした。

 公爵のコートの袖の端を、軽く引いた。ただそれだけ。何を意味するでもない、子どもがするような仕草だった。

 公爵は振り払わなかった。

 ただ少しだけ、顔を逸らした。

「オリカ」

 リィナが老女に向かって言った。「もうここにはいられない。次に来たら本当にまずい。どこか別の場所に——」

「知っている」

 オリカが静かに立ち上がった。足元が少し覚束ない。それでも背筋は真っ直ぐだった。縫界の均衡を何十年も守ってきた人間の、消えない芯がそこにあった。

「原初の庭園に行くのだろう、お前たちは」

 誰も答えなかった。答える必要がなかった。

 オリカは糸子を見た。次に公爵を見た。その目が、何かを計るように動いた。

「道は、一つではない」

 それだけ言って、老女は奥の部屋へ歩いていった。引き出しを開ける音がした。布が擦れる音。何かを探している。

 糸子は公爵の袖からようやく手を離して、散らばった記憶布の断片を一枚拾い上げた。廃園の、色褪せた青い欠片。さっき盾に使ったものとは別の断片。

 ちゃんと縫えた、と思った。

 感情を込めて縫えば、廃園の記憶は応えてくれる。それが今日、初めてわかった。

 奥の部屋からオリカが戻ってきた。その手に、古びた羊皮紙が一枚あった。折り畳まれて、端が茶色く変色している。

「これを」

 糸子に差し出された。

「原初の庭園への、旧い縫い道だ。ガルデはまだこの道を知らない。急げ」

 糸子は羊皮紙を受け取った。手の中で、それがほんの少し、温かかった。

 扉の外で風が鳴いた。廃園の記憶が、また少しほつれていく音に似ていた。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

26

縫い合わせた盾

緒方 縹

2026-06-08

前の話
第26話 縫い合わせた盾 - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版