朝の空気は薄く、灰色に塗れていた。
縫界の空はどこへ行っても布地に似ている。雲の一枚一枚が手縫いの綿を延ばしたような柔らかな質感を持ち、光が差すたびに織り目が透けて見えた。糸子はその空を仰ぎながら、廃屋の軒先で荷物を背負いなおした。肩に当たる紐の感触だけが、今朝の自分に確かな重さを与えてくれた。
「出発するわよ。置いてくわよ」
リィナが先頭に立って歩き出しながら、振り返りもせず言った。髪を雑に束ねた紐が揺れ、行商人特有の多層に重なった外套が足元をはためかせている。軽い声だった。いつもそうだ。どんな朝にも、リィナの声は旅の最初の一針を通すように、澱みなく空気を縫っていく。
「待ってください」
公爵が低い声で応えた。昨夜、糸子に継ぎ接ぎを縫い直してもらった箇所を無意識に手で押さえながら歩く姿は、ほんの少しだけ違って見えた。何かが変わったわけではない。ただ、ほつれが塞がった分だけ輪郭がはっきりしたような、そんな印象だった。
三人は廃園の縁を抜けて、北へと向かう獣道を歩き始めた。
リィナが言うには、縫守のオリカが身を隠している場所は「草縫いの谷」と呼ばれる辺境の地だという。地面そのものが古い記憶布で編まれており、歩くたびに足の裏からかすかな声のようなものが聞こえると、縫界の古文書に記されているらしかった。
「聞こえるの、その声って」と糸子が尋ねると、リィナはあっさり答えた。
「さあ。あたしには聞こえたことないわ。でも聞こえる人には、ぜんぶ聞こえるんですって」
「ぜんぶって、何が」
「忘れたくて埋めた記憶。捨てたくて流した言葉。そういうもの」
糸子はしばらく黙った。自分の足元に何かの記憶が眠っているとしたら、それは誰のものだろうか。あるいはもしかして、かつて自分が売り払った記憶の欠片がどこかの地面の奥で糸くずになって残っているとしたら。そう考えたとき、胸の奥をぼんやりとした悲しみが通り過ぎた。
道は緩やかに下りになり、やがて両側の木々が密になった。木の幹には古い記憶布の切れ端が貼りついており、風に揺れるたびに淡い光を点滅させた。まるで街灯の代わりのようだと糸子は思った。
「リィナさんって、もともとどこの出身なんですか」
問いは唐突だったかもしれない。しかし糸子には計算がなかった。ただ、歩きながら隣を見たとき、リィナの横顔が少しだけいつもと違う角度で空を見ていたような気がして、それで聞きたくなった。
リィナは一瞬だけ足を止めた。止めてすぐ、また歩き出したので、聞こえなかったふりをするのかと思った。だがそうではなかった。
「縫都シルタ、って聞いたことある?」
「ない」
「そうよね。今はもうないから」
さらりと言った。あまりにもさらりとしていたので、糸子は一拍遅れてその言葉の意味に気づいた。今はもうない。都市が。ない。
「ドームが……解けたんですか」
「解けた」とリィナは言った。「あたしが十一の年。一晩で全部」
公爵が足音を変えずについてくる。糸子は彼の顔を見られなかった。代わりにリィナの背中を見た。揺れる外套の裾が、何かを隠すように翻った。
「あたしの一族はね、ドームを縫い続ける役割を持ってたの。縫い守り、っていう仕事。縫守のオリカみたいな大それたものじゃないけど、代々ドームの縁を補修して、記憶布が解けないように縫い続けてた」
「それが……」
「あたしの母が縫い間違えたのよ」
静かだった。木々の間を風が通り、記憶布の切れ端がひとつ、はらりと落ちた。
「一本の縫い目が逆に入ってた。それだけ。たったそれだけのことで、ほつれは広がって、翌朝には都市が消えてた。住んでいた人は散り散りになって、中には記憶ごと解けた人もいた。あたしは外に出ていたから助かったけど、母は……」
そこでリィナは笑った。困ったような、照れたような、しかしどこかひどく疲れたような笑いだった。
「だからね、あたし、旅してるの。行商しながら各地の記憶布を見て回って、ほつれを見つけたら報告して、売買を仲介しながら縫界の状態を観察して。誰に頼まれたわけでもないけど。やめられないのよ、怖くて」
「怖い、って」
「また消えたら嫌だから」
糸子は針箱の重さを背中に感じた。肩紐の食い込みが、急にひどく意味を持つように思えた。昨夜、公爵の継ぎ接ぎを縫いながら自分の指先に感じた、あの緊張と祈りに似た感覚。縫うことは守ることだと、直感的に知っていた。しかしリィナにとってそれは、守れなかった記憶と表裏一体になっている。
「あなたが旅してるのは、そのためだったんですね」
「ちょっと待って、感動するの禁止。あたし今わりとさらっと言ったつもりだったから、しんみりされると照れるのよ」
「でも」
「でも、じゃないの。あたしが言いたかったのはね」
リィナが立ち止まり、くるりと振り返った。瞳がいつもより少し大きく見えた。光の加減かもしれなかった。あるいはそうではないかもしれなかった。
「オリカのところに行けば、嫌なことも分かるかもしれない。あの人はね、知りすぎてる人だから。あなたたちが知りたいことも、知りたくないことも、全部セットで出てくる可能性がある。だから覚悟しておけってこと。それが言いたかっただけ」
「……なんでそれをわざわざ言うんですか」
「嘘をついた後ろめたさよ」
糸子はぱちりと目を瞬いた。
「嘘?」
「縫守の隠れ家への道、一本だけ遠回りさせたの」正直に、けろりとリィナは言った。「途中でほつれを確認したかった場所があって。二人には余計な時間取らせて悪かったわね。ちゃんと言えばよかった」
公爵が低く息をついた。怒っているというより、呆れているような音だった。
「遠回りの分は昼過ぎには取り返せる。それまで文句は聞かない」
「聞く気がないなら最初から謝るな」
公爵の言葉に、リィナはまた笑った。今度はさっきより軽く、でも少しだけ本物に近い笑い方だった。糸子はその笑顔を見ながら、この人がなぜいつも飄々としているのか、少しだけ理解した気がした。重いものを抱えている人間ほど、軽くあろうとする。それはきっと、軽さが鎧になるからだ。
三人はまた歩き始めた。
木々の間隔が広がり、視界が開けると、遠くに谷の輪郭が見えた。草縫いの谷だと分かったのは、谷底の地面が陽光を受けて淡く光っていたからだ。古い記憶布が何層にも重なり、地面そのものが微かに息をしているようだった。
糸子は足を踏み出す前に、一度だけ立ち止まった。
あそこに降りれば、オリカに会える。公爵の過去を知る唯一の存在に。そして公爵が知るべきことと、知らぬままでいたほうがいいことが、一緒に溢れ出すかもしれない場所に。
背中の針箱がまた重さを変えたように感じた。
リィナの言葉が胸の中で繰り返された。知りたいことも、知りたくないことも、全部セットで。
それでも、と糸子は思った。それでも針を持って進んだ人間を、自分は今日まで一人だけ知っている。
足元の草が、かすかに揺れた。音はなかった。しかし確かに、何かが聞こえたような気がした。