夜が明ける前の空は、縫界ではいつも少し遅れてほつれる。
闇がまだ布地のように重く張り詰めていた頃、糸子と公爵が辺境の堆積地帯を抜けたのは、そういう時間帯だった。最後の記憶布の積み山を乗り越えた瞬間、糸子の足が踏んだのは、固く縫い締められた大地だった。きちんと縫い目の通った、人が意図して作った道だ。
「……着いた」
思わずそう呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。夜通し針を動かし続けた指先が、じんじんと熱を帯びている。振り返れば、来た道はもはや見えない。ただ記憶布の山が、ぼんやりと闇に溶け込んでいるだけだった。
公爵が隣に立ち、地平の向こうを見た。その横顔に、薄い夜明けの光が当たり始めていた。
「糸縒り市場だ」
彼が静かに言った先に、それはあった。
ドームだった。しかし辺境で目にした廃墟の曲線とは全く違う。縫界の都市を覆う布張りのドームは、どの都市でもそれぞれ固有の色と柄を持つと、糸子はリィナから聞かされていた。糸縒り市場のドームは――金だった。幾千もの糸が縦横に縫い合わさった文様が朝の光を受けて輝き、遠目にも、そこが生きている都市だと一目でわかった。
堆積地帯を越えてきた足は笑えるほど重かった。それでも糸子は歩き出した。引き寄せられるように、その光へ向かって。
*
糸縒り市場の入市門は、太い縫い糸を格子状に張った大きな門構えで、衛士が二人、布地の鎧をまとって立っていた。公爵が胸元から小さな記憶布の切れ端を取り出して提示すると、衛士は何も言わずに道を開けた。
「通行証?」
「金を払えば手に入る。辺境に来る前に用意しておいた」
短い言葉で済ませてしまう人だな、と糸子はもう慣れた気持ちで思いながら、ドームの内側に足を踏み入れた。
瞬間、音が来た。
声、布のこすれる音、荷車の軋み、売り子の呼ぶ声、記憶布が風に揺れるひらひらという音、子どもが走る足音。それらが一斉に糸子の耳に飛び込んで来て、彼女は思わず立ち止まった。
市場は活きていた。いや、それ以上だ。縫界の記憶布を扱う交易地として栄えるこの都市は、まるで都市そのものが息をしているかのようだった。道の両脇には色とりどりの布が軒先から吊るされ、商人たちが威勢よく声を張り上げている。薄い記憶布から分厚い意識の塊まで、あらゆる質と年代の記憶が商品として並んでいた。
糸子は無意識に自分の右手を握った。針の感触が、指の中にある。
「記憶を売るよ、買うよ。初夢の記憶、三十年前の夕暮れ、誰かに愛された朝の記憶、どれもある!」
売り子の声が耳をかすめた。糸子の胸に、ちりと何かが刺さった。記憶を売る。自分がしたことだ。どこで、誰に、何を対価に売ったのかも、もう分からない。残っているのはその事実だけで、その事実さえ、薄く滲んで見えることがある。
「立ち止まるな」
公爵が低く言った。糸子は息をついて、足を動かした。
*
市場の中央広場に、噴水があった。
水ではなく、細い記憶布の糸が無数に噴き上がり、光の中で舞っている。縫界らしい噴水だと糸子が目を細めていると、その傍のベンチに腰かけた人物が、片手を大きく振った。
「遅いよ。三日待ったんだけど?」
ほつれ屋のリィナだった。
赤みがかった短い髪に、肩から大きな行商袋。軽薄そうに笑う口の端に、見慣れた飄々とした色が乗っている。しかし糸子が思わずその顔をまじまじと見たのは、目の下に薄い翳があったからだった。三日待った、という言葉は、リィナにしては珍しく冗談に聞こえなかった。
「リィナ」
「やあ、糸子ちゃん。公爵さまも、ご無事で何より」
リィナはベンチから立ち上がり、糸子の全身を上から下まで眺めた。
「ずいぶんくたびれた顔してる。堆積地帯、抜けてきたんだね」
「縫い固めながら来た」
「縫い固めながら? 一人で?」
リィナの目が少し変わった。飄々とした色の奥に、何か真剣なものが混じる。糸子は曖昧に肩をすくめた。
「針が動いたから。他に方法がなかったし」
「そう」
リィナはしばらく糸子を見ていたが、やがて柔らかく笑った。今度はそれが本物の笑いだと分かった。
「よかった。本当に、よかった」
その言葉の重さが糸子の胸にすとんと落ちた。軽口ばかり叩くこの行商人が、そういう声を出すとき、彼女は何かを真剣に心配している。
「……何か、あったの?」
「話がある。座って」
リィナがベンチを指した。三人で並んで腰を下ろすと、記憶糸の噴水が頭上でさらさらと音を立てた。
*
「縫守のオリカを探してほしい」
リィナはそう切り出した。
糸子は「縫守」という言葉を、以前リィナの口から断片的に聞いていた。縫界の均衡を守る者。記憶布の網の目を管理し、都市のドームの縫い目に目を光らせる、縫界最古の職能。しかし今この時代、縫守は一人しかいないと言われていた。
「オリカ、っていうのが、その縫守?」
「そう。正確には、元・縫守。今は半隠遁状態で、どこにいるかも公には分からない。でも私は居場所の見当をつけてある」
公爵が口を開いた。
「なぜオリカを探す」
声は静かだったが、その静けさに鋭さがあった。糸子はちらりと彼を見た。公爵の体に縫い付けられた記憶布の端が、かすかに揺れていた。風のせいではない、と糸子は思った。
「ガルデが動き出している」
リィナは二人を見比べながら言った。
「布商ガルデ。この市場でも名前が出始めてる。廃園を複数、まとめて買い取ったって。でも実際は買い取りじゃない。記憶布を根こそぎ剥いで、廃棄してる」
「廃棄」
糸子が繰り返すと、リィナは頷いた。
「廃園の記憶布は古い。縫界の最初期の記憶が含まれてることもある。ガルデにとっては不良在庫だよ。価値がなければ消す。そういう男」
糸子の指先に、じわりと熱が宿った。針が疼く。廃墟の庭園に漂っていた古い記憶の幻影が、一瞬まぶたの裏に浮かんだ。笑い声、誰かの手、遠い昔に誰かが感じた夕暮れの匂い。あれが消えるということが、何を意味するか。
「古い記憶が消えると、縫界はどうなる?」
「ほつれる」
リィナの声から、飄々とした色が完全に消えた。
「縫界は層になってる。古い記憶ほど深いところで全体を支えてる。それを抜いていけば、上の層がどんどん不安定になる。ドームの縫い目が緩む。都市が、消える」
しばらく、誰も口を開かなかった。記憶糸の噴水だけが、変わらずさらさらと鳴っていた。
「オリカは、縫界の構造を一番深く知ってる人間だ。ガルデを止める方法を知っているとしたら、あの人しかいない」
リィナがそう言って、今度は公爵を見た。
「それだけじゃない。オリカはあなたのことも知ってる、公爵さま。あなたが何者で、なぜそんな体になったのか。全部」
公爵は答えなかった。しかし糸子は見逃さなかった。彼の左の手が、わずかに握られたことを。体に縫い付けられた幾枚もの記憶布の中で、ひとつだけが、他よりも深く揺れたことを。
糸子は公爵を見た。彼は噴水を見つめたまま、口を開かない。
しかし糸子には分かった。長くはない付き合いだけれど、それくらいは分かるようになっていた。
この人は、知りたいと思っている。
「リィナ」と糸子は言った。「オリカは、どこにいるの」
リィナが少し目を見張った。それから口の端をゆっくりと上げた。
「縫界の第三層。古い都市の残骸が眠る、布の底。『沈み布』って呼ばれてる場所」
「行ける?」
「行けるよ。ただし、かなり危ない」
「行く」
糸子は迷わなかった。公爵の方を向き、真っすぐに見た。彼はしばらく糸子を見返して、それから目をそらした。
「……勝手にしろ」
それは、彼の言い方での「一緒に行く」だった。
リィナが噴き出した。
「あはは。二人とも変わんないね。じゃあ今夜は市場で休んで。明日の朝、出発しよう」
記憶糸の噴水が、光の中で踊っていた。糸子は空を仰いだ。金色のドームの布地が、頭上高く縫い目を輝かせている。
縫守のオリカ。公爵の過去。そして縫界が崩れないための、何か。
糸子はそっと針を握った。名前のない手のひらで、それだけを確かめながら。
次の朝が、来ようとしていた。