七日。

 その数字が頭の中で針のように刺さったまま抜けない夜だった。

 廃園の片隅、崩れかけた東屋の縁に腰を下ろして、糸子は膝の上の布地を指で撫でた。もとは何の記憶だったのか、もはや判別もつかない薄茶色の切れ端。ほつれた端をつまむと、指先にじわりとぬくもりが滲んだ。誰かの、何かの、確かにあった日々の残り香。

 廃園の夜は静かだった。正確には、静かすぎた。本来なら記憶布が擦れ合うたびに微かな音楽のような響きが漂うはずなのに、ここではその音すら細くかすれている。弱っているのだ、と糸子は思った。庭も、布も、あちこちに蔓延った雑草のような忘却も、全部まとめて。

 足音が聞こえたのは、月が頂点を過ぎた頃だった。

「眠れないのか」

 振り返るまでもなかった。継ぎ接ぎ公爵は東屋の柱に背中を預けて立っており、その体を覆う無数の縫い目が夜光の中でうっすらと光っていた。他者の記憶を縫い付けた証。剥がれかけた端がときおり風にめくれ、その下には何もない、ただの空白があるように見えた。

「眠ろうとしてないから眠れないのは当たり前」と糸子は答えた。「あなたこそ」

「俺は眠らない」

 断言に近い口調だった。糸子はそれ以上訊かなかった。眠れば記憶が解ける、とリィナがどこかで言っていたのを思い出したからだ。継ぎ接ぎ公爵の体を縫い合わせているのは他者の記憶布だ。眠りに落ちる瞬間、その縫い目が緩む。

 つまり彼が眠らないのは、眠ることができないからなのかもしれない。

「ねえ」と糸子は切り出した。「あなたの名前って何?」

 沈黙。

 柱の向こうで、風が一枚の記憶布を巻き上げた。白に近い灰色の薄布が夜空にふわりと舞い、星の光を透かして揺れた。

「公爵だ」

「それは通称でしょ。本当の名前」

「ない」

 短い。しかし今度の沈黙は少し違う質をしていた。先ほどのものが問いを遮る沈黙なら、今のそれは何かを押し込める沈黙だった。糸子は膝の上の布地を握りしめた。

「……失ったの? それとも、最初からなかったの?」

 公爵はしばらくの間、答えなかった。

 東屋の天井から一枚の古い布が垂れていた。かつて誰かの笑顔を記録していたのだろうか、褪せた色の中に微かな朱が残っている。その端がほつれて揺れる様子を、公爵はずっと見ていた。

「区別に意味はない」

 それだけを言って、彼は目を逸らした。

 糸子はそれを正面から受け取った。意味はない、ではなく、区別に意味はない、と彼は言ったのだ。失ったのか最初からなかったのか、どちらであれ今の自分には名前がない、という事実に変わりはない。だから区別しても仕方がない。

 それは諦めではなかった。もっと古い何か、諦める以前に枯れてしまったような乾いた感情の気配がした。

「じゃあ」と糸子は立ち上がった。膝の上の布切れを手の中に収め、公爵の正面に立った。「私と同じだ」

 公爵が初めて糸子を真正面から見た。その目は感情を読ませない。ただ、見ている。

「私も名前がない。あなたも名前がない。ふたりとも名前のない者同士」

「それが何だ」

「取引をしたい」

 糸子の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。交渉だ、と体のどこかが囁いていた。直感と行動力だけが取り柄と言われるこの体でも、今だけはちゃんと言葉を選んでいる。

「私はこの廃園に残る。七日間、ガルデの回収人が来る前に縫守のオリカを探す。それで廃園を守れるかもしれない」

「一人で行くのか」

「一人じゃ無理だから取引を持ちかけてる」

 公爵の眉が僅かに動いた。それが呆れなのか、別の何かなのか、糸子には判断できなかった。

「条件は一つ。私の名前を見つける旅に、同行すること」

 夜風が吹いた。東屋の垂れ布が大きく揺れ、褪せた朱色が夜の中で一瞬だけ鮮やかに見えた。

「断る」

 即答だった。

 糸子は「そうか」とだけ言った。がっかりしていないわけではない。ただ、最初の一手でうまくいくとも思っていなかった。公爵は慎重な人間だ。いや、慎重というよりも、何かに傷を負っているから動かないのだ。

「理由を訊いてもいい?」

「旅は消耗する。俺の縫い目が緩む。それだけだ」

「それだけ?」

「それだけだ」

 彼は踵を返して歩き出した。東屋を出た背中が、廃園の暗がりに向かっていく。糸子はその後ろ姿を見送りながら、手の中の布切れを指の間で弄んだ。

 そうして、針を取り出した。

 感情が針と糸に乗り移る体質、とリィナは説明していた。喜怒哀楽が直接針先に宿り、縫い方に出る。だから感情が荒れているときに縫うと布が歪む。反対に、穏やかに集中しているときに縫った布は、不思議なほど美しく整う。

 今夜の糸子の感情は、静かだった。悲しくも怒ってもいない。ただ、この廃園に堆積した忘れられた記憶たちが、あの褪せた朱色の布切れが、少しかわいそうだと思っていた。

 縫い始めた。

 膝の上の薄茶色の布に、指先の感覚だけを頼りに針を刺す。糸は細く、月光に透けるほど白い。縫い目は花の形に、小さな小さな花弁を一枚一枚たぐり寄せるように。

 記憶布を縫い合わせると、その記憶が形を取る。形を取った記憶は物になる。建物になる。地形になる。人になることすらある。糸子の縫合はそのどれでもなく、もっと小さな、ほとんど意味をなさない規模のものだが、それでも確かに何かが起きる。

 布が光った。

 最初はほのかに、次第に輪郭を持って。縫い目から光が漏れ、花の形に沿って滲み出した。白い光が東屋の床に落ちて、足元の枯れた土の上に反射する。

 そして庭が、動いた。

 正確には動いたのではない。しかし枯れた地面の一角で、閉じていた蕾のような何かがゆっくりと開いた。記憶布でできた草花が、眠っていた記憶の層から引き上げられるように、そっと顔を出したのだ。色は薄い。青とも紫ともつかない、夜の色に近い花。しかし確かに、そこにある。

 糸子は縫い続けた。

 廃園の一角で、花が咲いた。

 公爵は歩みを止めていた。

 振り返っていない。ただ、足が止まっていた。背中越しに光が届いている。東屋の方から流れてくる白い光と、それに応えるように廃園の奥でぽつぽつと広がっていく小さな輝き。記憶布が光るとき、そこには必ず温度がある。かつて誰かが確かに生きていた、その熱。

 彼は長いこと、その光を背中に感じていた。

 廃園の蕾が開く音は聞こえない。それでも、何かが満ちていくような気配は確かにあった。空気の質が変わる。乾いていた夜が、少しだけ湿度を取り戻す。

 名前のない少女が縫った花が、名前を失った庭に咲いていた。

 公爵はゆっくりと息を吐いた。その音は風に消えた。

 足は、まだ動かなかった。

 東屋では糸子が最後の一針を止めて、完成した布をそっと地面に置いた。光は静まり、花だけが残った。本物の花ではない。記憶でできた花だ。いずれほつれる。それでも今夜だけは、確かにここに咲いている。

 彼女は空を見上げた。縫界の夜空には星がない。その代わり、ドームの内側を覆う古い記憶布が光を帯びて、星のように瞬く。廃園のそれは他の都市より数が少なく、所々に穴が空いている。しかしその穴の向こうから、外の闇がのぞいている。

 七日後には、この景色も消える。

 消えてほしくない、と糸子は思った。理由など特にない。ただ、消えてほしくない。

 背後で布を踏む音がした。

「……一つ、条件がある」

 振り返ると、公爵が立っていた。夜の中で、彼の体の縫い目がかすかに光っている。

「何?」と糸子は訊いた。

「俺の名を探すことには協力しない」

「うん」

「旅の主導権は俺が持つ」

「それは交渉次第」

 公爵は少しの間、糸子を見下ろした。

「……縫守のオリカを見つけたとして、廃園が守られる保証はない」

「ないね」と糸子はあっさり言った。「でも何もしなければ七日で確実に消える。どっちがいい?」

 沈黙。

 廃園に咲いた記憶の花が、風もないのにわずかに揺れた。

「出発は夜明けだ」

 公爵はそれだけ言って、今度こそ歩き去った。糸子は花を見て、それから彼の背中を見て、小さく笑った。声は出さなかった。ただ、胸の中で何かが縫い合わさるような、そんな感触があった。

 名前のない者同士の取引は、こうして成立した。

 まだ夜明けまでには時間がある。糸子は針を仕舞い、手のひらの上で糸の端を弄んだ。旅の目的地も、縫守のオリカの居場所も、何もわからない。わかっているのは七日という期限と、隣に歩く者ができたということだけだ。

 それで十分かもしれない、と思った。そしてすぐに、十分なわけがないとも思った。

 どこかで記憶布がほつれる音がした。廃園の夜は、まだ続く。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

10

名前のない者同士の取引

緒方 縹

2026-05-23

前の話
第10話 名前のない者同士の取引 - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版