その日の境界路地は、やけに穏やかだった。
秋の気配が現世からじわりと滲み込んでくる午後、相談所の軒先では骨川さだが菊の造花を飾り直し、ぽん太が掃き掃除のつもりで玄関先の埃を盛大に巻き上げ、灯子に「逆効果です」と叱られるという、もはや様式美のような一幕が繰り広げられていた。
「掃き出す方向って難しいっすよね……」
「難しくない。外に向けて掃くだけです。外に」
「外って、どっちが外でしたっけ」
灯子はこめかみを押さえた。三週間指導しても改善しない。弁護士時代に担当した一番難解な案件より、ぽん太の特訓の方がよほど頭を使う気がした。
縁側では閻魔丸が例の如く寝転がり、せんべいをかじりながら現世のワイドショーを覗ける小型の霊視盤をひとりで楽しんでいた。今週の芸能スキャンダルに「へえ、人間てえのはほんとに面白えなあ」と感心している。書類仕事は積み上がったまま、手つかずだ。
「牛島様の転生確認書、まだ確認してないんですか」と灯子が言うと、閻魔丸はせんべいをもう一枚取りながら「あとでいい、あとで」とひらひら手を振った。「問題ねえよ、あの書類はちゃんと書いたから」
そのちょうど五分後のことだった。
ドン、と。
扉が、外側から叩かれた。叩かれたというより、殴られた。相談所全体が揺れ、縁側の閻魔丸の霊視盤がコロコロと転がる。さだが「まあ」と眉を上げ、ぽん太が箒を取り落とした。
「開けろ! 開けんかい! ここが冥界の相談所やろが!」
怒号が木の扉を突き抜けてくる。低く、野太く、それでいて妙に通る声だった。
灯子が扉を開けると、廊下いっぱいに人影が立っていた。いや、人影というには語弊がある。霊体ではあるのだが、目の前の存在はとにかく大きく、威圧感があった。恰幅のいい六十代とおぼしき男で、仕立てのいいスーツを着込み、頭頂部がつるりと光っている。目が鋭く、眉が太く、歩いてきた気配だけで気圧されそうな迫力がある。
「お前が責任者か!」
「……相談員の榊原です。本日はどのようなご用件で」
「用件? 用件やと?」
男は鼻で笑って、どかどかと土間に踏み込んできた。灯子は一歩も引かなかった。元弁護士として、怒鳴り込んでくるタイプの相手には慣れている。怖いとは思わない。ただ、面倒だとは思う。
「わしは牛島肇や。牛島製工の創業社長や。先月ここで転生の手続きをさせられた。覚えとるか」
「ご名前で記録を確認しますので、少々お待ちください」
「待つかい!」
牛島は拳でどんと壁を叩いた。造花の菊がはらりと一輪落ちた。さだが「まあまあ」と言いながら、しかし目が笑っていない。
「聞けや。わしはの、虎に転生するはずやった。ちゃんとそう説明を受けた。百年生きる猛獣の王や、威厳がある、お前の魂に相応しいと言われたんや。それがどうや。気づいたらマンションの飼い猫になっとったやないか! ノエルいう名前つけられて、腹の毛がふかふかで、毎朝おばちゃんにブラッシングされとるんや!」
沈黙が落ちた。
ぽん太が小さく「ノエルかわいい……」と呟いたのを、灯子の鋭い視線が即座に黙らせた。
「確認します。少しお待ちください」
灯子は事務棚から転生管理台帳を引っ張り出し、「牛島肇」の項目を開いた。そして止まった。
転生先の欄には、達筆なのか何なのか判然としない字で、こう書かれていた。
『虎 ※なお猫科』
なお猫科。
灯子はしばらくその文字を見つめ、それから縁側を向いた。閻魔丸がせんべいを口に運びかけたところで、二人の目が合った。
「……あの」
「……うん」
「虎、って書きましたよね」
「書いた書いた、ちゃんと書いた」
「その下に何か書きませんでしたか」
「え?」閻魔丸がのそのそと台帳を覗き込み、数秒後に「あー」と言った。「これ書いたな。なんか虎もでかい猫の仲間やな、って思ったから、ちょっとメモしたんだわ」
「ちょっとメモ?」
「うん」
「そのメモが転生担当部署に正式な指示として伝わって、猫科の中から適当に割り当てられた結果、飼い猫になったんですね」
「……たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
「いや、そのたぶんもあながち間違いじゃないと思うんだよなあ。ほら、猫科は猫科だし——」
「閻魔様」灯子の声は、廷問中の裁判官のそれになっていた。「これはミスです。明確な記載ミスです。認めてください」
閻魔丸は三秒ほどぽりぽりと頭を掻き、「まあ……そうかもなあ」と白旗を上げた。
牛島が再び吠えた。
「やっぱりミスやないかい! わしが言うた通りやろ!」
「おっしゃる通りです」灯子は牛島に向き直り、深く頭を下げた。「こちらの書類管理に不備がございました。誠に申し訳ございません」
ぽん太が「自分も謝ります!」と飛び出してきたのは、そのタイミングだった。
研修の成果を見せようとしたのだろう、勢いよく土間に出てきたぽん太は、しかし盛大に足を滑らせた。箒を踏んだのだ。自分で落とした箒を。
「うわわわわっ」
体重百二十キロの鬼が転倒し、玄関の木枠にぶつかり、外していた表札が「なんでも相談、承ります」と書かれたまま落下した。さらにそれが牛島の足元に滑り込み、牛島は反射的に後退して、さだの淹れたばかりのお茶を盆ごと引っくり返した。
熱くはない。霊体なのだから。
だが問題はそこではなく、牛島が「な……何しとんじゃ!」と完全に怒りの矛先をぽん太に向けたことだ。
「も、申し訳ありません! 自分、接客の研修中で——」
「研修中? こんなんが研修中? 冥界はどうなっとんじゃ!」
「お客様、落ち着いて——」
「落ち着けるかい! 虎になり損ねた上に鬼にまで転ばされて——!」
「ぽん太、下がって」
灯子が間に入り、ぽん太の巨体を押しのけた。鬼より人間の方が気合いで勝ることが、最近しばしば起きている。
「牛島様」灯子は落ち着いた声で言った。「ご不満はすべて正当です。書類ミスは事実で、転生先の誤りも確認しました。本来であればすぐにでも修正手続きをとるべきところですが、転生完了後の変更は冥界規則上、一定の手順が必要になります。ただし、不当な不利益を被ったとして異議申し立てをする権利は牛島様にあります。今日ここで、私が正式に受理します」
牛島は少し黙った。怒鳴り慣れた人間が、初めて「正面から受け止められた」と感じたときの間だ。灯子には覚えがある。法廷でも、そういう瞬間があった。
「……ほんまに、動いてくれるんか」
「動きます。ただし、転生先の変更が可能かどうかは本部の裁定次第です。私はその手続きを全力でサポートします」
「弁護士みたいやな、お前」
「元弁護士です」
牛島はふん、と鼻を鳴らした。怒気が、少しだけ薄まった気がした。
「……わかった。任せたる。ただし、必ず虎にしてもらうぞ。腹の毛がふかふかな猫は、もうたくさんや」
「承りました」
さだが新しいお茶を運んできた。今度は盆をぽん太の届かない場所に置いて。
ぽん太は隅で正座し、しょんぼりと角を垂らしていた。閻魔丸は台帳を手にして、やや申し訳なさそうに窓の外を見ていた。
灯子は転生異議申立書の用紙を棚から取り出しながら、小さくため息をついた。弁護士をやめて、半分死んで、流れ着いたのがこんな場所で、相手にするのが死者のクレームで、ミスをした上司は冥界の最高権力者で。
まったく、縁というのは理不尽にできている。
だがその理不尽の中に、確かに自分の居場所がある気がした。
用紙に「牛島肇殿・転生先変更異議申立」と書き込みながら、灯子はふとある疑問が頭をよぎるのを感じた。
この申立書、提出先は冥界本部だ。本部は以前から相談所の活動を快く思っていないと、さだが話していた。
これはひょっとすると、ただのクレーム処理では済まないかもしれない。
窓の外、境界路地の夕暮れが現世より少しだけ遅く、茜色に染まりはじめていた。