朔が持ち込んだ封筒の中身は、翌朝まで持ち越しになった。

 理由は単純だ。書類の山を前に閻魔丸が「腹減った」と言い出し、さだが「まあまあ、今日はここまでにしましょうや」と仲裁に入り、灯子だけが「まだ全体の三割も終わってない」と抵抗したものの、気づけば境界路地に夜の帳が下りていたのである。冥界の夜は現世より少し長く、ほんのり青白い光が路地の石畳を濡らす。その光の中で、翌朝また橘という名の訪問者がやってきた。

 「橘九段、と名乗っとります。先生方のご都合のよいときにと申したんですが、さだ先生がすぐ通してくださって」

 縁側から上がり框を跨いだ老人は、腰こそ曲がっているが、背筋だけはまっすぐだった。着古した紺の着物、白髪交じりの眉、そして何より、目の奥に碁盤——いや、将棋盤の目がまだ残っているような、鋭い視線。

 灯子は茶を淹れながら相手の輪郭を測った。元プロ棋士。亡者。つまり死んでいる。だが棋士らしい矜恃だけは生前のまま、きちんと整えて持参してきた様子だった。

 「どうぞ」と湯呑みを差し出すと、橘九段は両手で受け取り、一度だけ礼をした。

 「単刀直入にお伺いします」と灯子は座り直す。「最後の一手を間違えた、とおっしゃるんですね」

 「左様です」

 老人の声は静かだった。静かだが、どこかねじれていた。

 「四十七年間、盤の前に座り続けました。最後の対局は引退試合、相手は内弟子の……北村というんですがね、可愛いやつで。あのとき、わたしは間違えた。勝てる手があったのに、指さなかった」

 「それが悔しいと」

 「悔しいんじゃない」と橘九段は言った。「おかしいんです。なぜ間違えたのか、自分でわからない。それが気になって、成仏できなんだ」

 灯子は少し考えた。法廷で依頼人の話を聞くとき、最初に「なぜこの人はここに来たのか」を探る癖がある。橘九段の場合、後悔ではない。疑問だ。自分の思考の空白を埋めたい——そういう種類の依頼だと、直感した。

 奥の部屋から閻魔丸が顔を出した。頭に何かの書類を貼り付けたまま、寝ぼけ顔である。

 「棋士? 棋士か。ああ、それなら記憶再生装置使えばいいんじゃないの。さだ、どこに仕舞った」

 「押し入れの奥の奥の、みかん箱の下でございますよ」

 「またそんなとこに」

 冥界の記憶再生装置は、見た目は古びた映写機に似ていた。黄ばんだ金属の筐体に、レンズが一つ。ぽん太が押し入れから引っ張り出してくるとき、角を壁にぶつけて大きな音を立てたが、装置自体は傷一つなかった。

 「これで、亡くなった方が生前の記憶を映像として再生できます」とぽん太が説明した。胸を張っているが、声がかすかに震えている。先日の接客研修で「笑顔で話すこと」と指導されたらしく、引き攣った笑みを口元に貼り付けているのが痛ましかった。

 橘九段はレンズを眺め、静かに頷いた。

 再生が始まった。

 畳の上に光が広がり、将棋盤が浮かび上がった。対局室の空気まで再現されるのか、かすかな緊張感が相談所を満たす。盤上には駒が並び、若い男——北村と呼ばれた内弟子だろう——が額に汗を滲ませて着座していた。橘九段は盤の向こうで、深く息をついている。

 「ここです」と老人は言った。「この局面」

 灯子は棋譜の記録紙を受け取っていた。橘九段が持参したもので、几帳面な字で手順が書き連ねてある。灯子は将棋には詳しくない。しかし書類を読むのは得意だ。彼女は棋譜を、契約書を読むときの目で眺めた。

 「先生。この記録、読み上げていいですか」

 「どうぞ」

 「六十二手目、橘九段は飛車を引いた。しかし記録欄の余白に、鉛筆で『▲7六銀』と書かれています。これが指すべきだったと思っていた手ですか」

 老人が静止した。

 「……よくわかりましたな」

 「弁護士の習慣です。書き込みのある余白は、必ず読む」と灯子は続けた。「七六銀と指せば勝てた?」

 「おそらく。北村の受けには、もう手がなかった。しかしわたしは、飛車を引いた。結果、北村が勝った」

 映像の中の橘九段が、飛車の駒に手を伸ばした。その指先が、ほんの一瞬だけ、止まった。

 灯子はその瞬間を見逃さなかった。

 「止まってますよ、指が」

 「……そうですな」

 「止まって、それでも飛車を引いた。七六銀ではなく」

 閻魔丸が欠伸をしながら縁側に腰掛けた。「要するに、わざと負けたのか负けたのかわからなくて気持ち悪いって話か」

 「うるさい、黙ってて」と灯子が制する。

 老人の顔に、何か複雑なものが浮かんだ。

 「わたしは……四十七年、勝ち続けることを使命だと思っていた。負けは恥だと。だから引退試合に負けたことが、自分でも信じられなかった。あの局面で、なぜ飛車を引いたのか。記憶にない。ただ……」

 映像の中で、若い北村が盤を見つめている。額の汗、強ばった肩、そして目の中に燃えているもの——必死さとも、恐怖とも、信仰ともつかぬ何か。

 「北村がその目で見てたんですね」と灯子は言った。静かに、しかし確信を持って。「師匠に全力で挑んでいる目で」

 橘九段は答えなかった。

 「棋譜を法律文書に例えるとしたら」と灯子は続けた。弁護士の癖が出ている、とわかっていても止まらなかった。「契約って、一方が勝って一方が負けるためのものじゃないんです。双方の意思が合致したとき、はじめて成立する。あなたの六十二手目は——相手の意思を、受け取った手だったんじゃないですか」

 沈黙が落ちた。

 さだが奥でそっと茶を継ぎ足す音だけが聞こえた。

 「……北村は、わたしに勝ちたかった。本当に勝ちたかった」老人の声が、かすかに揺れた。「あの目は、そういう目だった。そしてわたしは……」

 「受け取った」

 「負けてやったんじゃない」と橘九段は、静かに、しかしはっきり言った。「受け取ったんだ。あの子の四十年分の、全力を」

 映像の中で、北村が勝利の一手を指した瞬間、その顔が映った。驚きと、感謝と、泣きそうな笑顔が入り混じった、若い棋士の顔。橘九段の目元が、細くなった。

 「師匠が弟子に渡せるものは、技だけじゃないんですな」

 「勝利、ですか」と灯子は言った。

 「最後の一局という……舞台を」

 閻魔丸が縁側から「それ相当の一手じゃないか」と言い、さだが「まあ閻魔様ったら珍しく気の利いたことを」と返した。ぽん太はいつの間にか目を真っ赤にして鼻をすすっていた。

 橘九段は棋譜を、丁寧に折り畳んだ。そしてそれを、灯子に差し出した。

 「預けてもよいですか。わたしには、もう要らない」

 灯子は受け取った。紙の感触が、妙に温かかった。

 老人の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。成仏とはこういうものかと、灯子は三度目にして初めて、落ち着いて見届けることができた。橘九段は最後に一度、深く頭を下げた。将棋盤に向かうときのような、静謐な礼だった。

 路地に風が吹いた。

 「……一手のために四十七年、か」と灯子はつぶやいた。

 「そういうもんだよ」と閻魔丸が伸びをしながら言う。「一手のために何百年も引きずる奴も来るからな、うちには」

 「あなたのこと?」

 「違う違う」と閻魔丸は笑った。例の、笑いのツボが謎な笑い方で。

 灯子は棋譜を書類棚に仕舞った。未処理案件の山の、いちばん端に。ここに置かれたものは、全部誰かの四十七年だ——そう思ったら、妙にしゃんとした気がした。

 「それで」とさだが言った。「朔さんの封筒の中身は、いつお開きになりますか」

 灯子は棚を振り返った。

 封筒はまだ、昨日のまま、机の端に置かれていた。宛名はない。差出人もない。ただ封蝋の色だけが、見たことのない、深い藍色をしていた。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

17

依頼人:元プロ棋士の誤算

夕凪 一葉

2026-05-29

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