三丁目の秋は、どこか急いでいる。
金木犀が一夜にして香りを撒き散らし、翌朝には葉が色づき、気がつけば路地の端に落ち葉が吹き溜まっている。現世の時間はそういうものだと頭ではわかっていても、冥界出張所に籍を置くようになってから、灯子はその慌ただしさをどこかよそごとのように眺めるようになっていた。
この日の午後は珍しく依頼が途切れていた。
閻魔丸は「ちょっと本部に顔出してくる」と言い置いて昼前から姿を消し、ぽん太は精進料理の出前を頼もうとして冥界の電話帳をひっくり返しており、さだは縁側で金柑の甘煮を作りながら鼻歌を歌っている。相談所の空気はひどく穏やかで、灯子は縁側に面した六畳間に胡坐をかき、山積みになった「縁結び機能復活申請書」の下書きを眺めていた。書き直すべき箇所に赤を入れながら、しかし集中できずにいる自分に気づく。
牛島庄平の一件が、まだどこかに引っかかっているのかもしれない。
いや、違う。
引っかかっているのは、あの夜のことだ。
閻魔丸が「そなたは使えるな」と笑った後、縁側に現れた藤代朔の顔が、なぜかまだ瞼の裏に残っていた。
そうしているうちに、路地の奥から足音がした。
*
木戸を開けたのは、やはり彼だった。
紺の薄手のジャケットに、少し首元が伸びた白いシャツ。肩から布製のトートバッグを下げ、もう片方の手に包みを持っている。薄紙に包まれたそれは、淡い桃色が透けて見えた。
「こんにちは」と朔は言った。「また来てしまいました」
「いらっしゃいませぇ」
縁側から身を乗り出したぽん太が精一杯の笑顔を作ったが、その顔は角が二本あり目が縦に裂けており、どこをどう見ても接客向きではない。朔は一瞬だけ固まったが、すぐに「お邪魔します」とひらりと縁側に腰を下ろした。慣れている、と灯子は思う。何度かここへ来ているうちに、ぽん太の顔には慣れたらしい。
「これ、よかったら」
朔が差し出した包みを受け取ると、中から桜餅がふたつ、和紙の仕切りを挟んで並んでいた。道明寺の、上品な甘さを予感させる薄桃色だ。
「お茶請けにでもどうぞ。三丁目の和菓子屋さんで買ったんですけど、ここ、甘いものとか食べますか」
「食べます食べます」
先に答えたのはさだで、金柑の鍋を縁側に置いてきりりと小走りに座敷へ入ってきた。「ありがとうございます、朔さん。お茶を入れましょうね。灯子さんも手を止めて」
「はい」
灯子は素直に書類を伏せた。朔がここへ来ると、場の空気が変わる。悪い方向ではなく、何かが少し静止するような――秒針が一拍ためらうような、そういう変化だ。
さだが茶を入れ、ぽん太が「俺も食べたいっす」と主張して追い払われ、三人で縁側に並んで座った。金木犀の香りが、路地の向こうから風に乗って流れてくる。
「今日は何か相談があって来たんですか」と灯子は訊いた。
「いえ」と朔は言った。迷いなく。「相談とか依頼とか、そういうんじゃないです。なんとなく来たくなって、来ました」
「なんとなく、ここに?」
「変ですか」
「変です」
きっぱり言うと、朔は少し笑った。目元が和らいで、一瞬だけ年相応の青年に見える。普段は何かを測るような、どこか遠い目をしているのに。
「そうですね。変ですね」
桜餅を一口食べながら、朔はぼんやりと路地の方を見た。「でもここにいると、なんか落ち着くんですよ。現世にいる時みたいな、あの感じがしなくて」
「あの感じ、というのは」
「うまく言えないですけど。立っているのか浮いているのかわからない感じ、かな」
灯子は桜餅を持ったまま、少し黙った。
その言葉を、どう受け取ればいいのかわからなかった。
現世で、自分が地面を踏めているか確信が持てない。そういうことを言っているのだとしたら――
「朔さん」
気がついたら、口が動いていた。後から考えれば唐突すぎると思う問いだが、灯子は一度喉から出かかった言葉を引っ込めることが苦手だった。弁護士時代からそうだった。気になったら訊く。訊いてから謝る。
「あなた、生きてるんですか。それとも、死んでるんですか」
縁側の空気が、止まった。
さだの茶碗を持つ手が、わずかに静止する。
朔は驚いた様子もなく、灯子の方を向いた。その顔には笑みがあった。困ったような、でも怒っているわけでもない、何かを手のひらで包み込むような笑み。
「直球ですね」
「直球じゃないと埒が明かないんで」
「そうですか」
朔は少し空を見上げた。秋の空は高く、うろこ雲が西へ向かって流れている。
「どちらでもある、かな」
「どちらでもある?」
「生きてもいるし、死んでもいる。曖昧な場所にいます、俺は」
さらりと言って、朔は桜餅の残りを口に運んだ。おいしいですね、と言いながら。
灯子は言葉を探したが、うまく見つからなかった。半死半生という状態を自分も身をもって知っているつもりだったが、朔の言い方はそれとも少し違う気がした。自分の場合は事故によって強制的に境界に放り込まれた。でも朔の「どちらでもある」は、もっと――根っこから、そういう存在であるような響きがあった。
「それは、」
「それ以上は、今日はごめんなさい」と朔は静かに言った。拒絶ではなく、お断りの声音で。「いつか話せる時に話しますから。今日はただ、桜餅を食べに来た日ってことで」
灯子は一拍置いて、「わかりました」と言った。
納得したわけではない。ただ今ここで押すべきではないということだけは、なぜかわかった。
*
朔が帰ったのは、夕暮れ前だった。
来た時と同じように、路地の木戸をくぐって、三丁目の方へ消えていく。その後ろ姿は、夕陽の中でうっすら輪郭が滲んで見えた――気がした。それが光の加減なのか、あるいは別の何かのせいなのか、灯子には判断がつかなかった。
片付けを手伝いながら、灯子はさだに言った。
「朔さんのこと、さださんは知ってるんですか」
さだは少し間を置いてから、茶碗を丁寧に布巾で拭きながら答えた。
「知っている、というわけでもないんですよ」
「でも」
「でも、あの子のことは」
さだが顔を上げた。普段の柔らかい表情ではなく、三百年生きた古株の目をしていた。灯子がはじめて見る顔だった。
「灯子さん。聞いてはいけません」
「え」
「朔さんのことは。深く聞いてはいけない。あの子から話してくれるまでは、こちらから踏み込んではいけないんです」
声は穏やかだったが、揺るぎがなかった。
「どうして」
「理由があります」と、さだは言った。「ちゃんとした、理由が。でもそれもまだ、わたしの口からは申し上げられない」
さだはそれだけ言って、茶碗を棚に仕舞った。それ以上は何も言わなかった。
灯子は縁側から路地を見た。朔が消えていった方角はもう夕闇に沈んでいる。「どちらでもある」という言葉が、耳の奥でまだ響いていた。
ちゃんとした理由。
さだが「申し上げられない」と言う時は本当に言えない時だと、三ヶ月の付き合いでわかっている。
つまりこれは、さだの判断ではなく、何か別の――もっと大きな何かが、朔という存在に蓋をしているということだ。
弁護士の頭が、勝手に動き出す。事実を整理しろ。証拠を集めろ。問いを立てろ。
でも今夜は、その思考をそっと棚に置いた。
桜餅はおいしかった。朔の笑顔は、嘘ではなかった。それだけは確かだと思いながら、灯子は暮れていく路地を、もう少しの間だけ眺め続けた。