夜が落ちてくる、と蒼汰は思った。
比喩ではない。文字通り、頭上の暗闇が重力を取り戻したように地上へ向かって沈み込んでくる感覚。観測塔の最下層、記録庫の隅にある小さな作業室で、蒼汰が霞鳥の残した余韻を胸に記録冊子を開こうとしていた、ちょうどそのときだった。
声が、聞こえた。
零花の声ではなかった。声というよりも、音のない叫びに近いもの。何かが引き裂かれる前に立てる、あの寸前の沈黙。
蒼汰は冊子を閉じ、廊下へ飛び出した。
記録庫の深部へ続く石段を駆け下りると、蒼汰の足が止まった。通路の中ほどに零花がいた。正確には、零花が倒れていた。石畳の上に膝をつき、両腕を自分の胴に巻きつけるようにして、まるで自分という器が割れてしまわないように押さえ込もうとするかのような姿勢で。周囲には、砕けた記憶の欠片が散乱していた。七つか、八つか、数えることも忘れて蒼汰は走り寄った。
記憶の欠片は、それぞれ淡い光を帯びていた。青みがかったもの、茶色く濁ったもの、鮮やかな紅のもの。それらが零花の周囲で不規則に明滅し、光の触手のように零花の輪郭へ侵食していた。欠片から溢れた他者の感情が、零花の中に同時に流れ込んでいる。そう気づくのに、時間はかからなかった。
「零花」
蒼汰は膝をついて、零花の肩に手を置いた。触れた瞬間、零花の身体がびくりと震えた。意識があるのかどうかもわからない。薄く開いた唇から、断切れた息だけが漏れている。
「零花、聞こえるか」
返事はなかった。
記憶の欠片に同時に接触すると何が起こるか、蒼汰は師匠の講義で一度だけ聞いたことがあった。地図師が絶対に避けるべき事故のひとつとして、天弦老師が淡々と説明していた。複数の他者の記憶が一点に流入すると、受け手の内側で感情が逆流を起こす。体が記憶の洪水に耐えられなくなり、最悪の場合、受け手自身の輪郭が溶けて消える。地図師ならば訓練で防ぐことができる。しかし零花は——記憶の欠片から生まれた存在である零花は、もともと自分と他者の境界が人よりずっと薄い。
蒼汰の指先が冷えた。
「零花」
もう一度呼んだ。今度は声に、意識して熱を込めた。名前を呼ぶことの意味を、改めて確かめるように。
「ここにいる。俺はここにいるから」
散乱した欠片の光が、激しく脈打っていた。零花の呼吸が浅くなる。頬に張りついた髪を、蒼汰はそっと払った。冷たかった。石のように冷たい肌に触れながら、蒼汰は零花の名前を呼び続けた。技術も道具も関係なかった。ただ声だけを使って、零花という存在がこちら側に留まれるよう、言葉を手繰り寄せた。
「零花。お前の名前を呼べるのは俺だけじゃない、わかってる。でも今、この場所でお前を呼んでいるのは俺だ。それだけでいい。それだけを聞いてくれ」
記憶の欠片がひとつ、光を弱めた。
続いてもうひとつ、明滅が鈍くなる。蒼汰は息を詰めた。呼びかけた言葉が何かに届いたのか、それとも偶然なのか判断できなかった。でも止まるわけにはいかなかった。
「寒いか。寒かったら言え。俺の上着を——」
言葉の途中で、零花の指が動いた。
石畳を掴もうとするように、ゆっくりと開いた指が、蒼汰の膝に触れた。無意識の動作だろうと思ったが、次の瞬間その指は確かに力を込めて、蒼汰の袖を握った。
「零花」
蒼汰は零花の背に腕を回した。倒れ込みそうな体を支えながら、名前を呼んだ。呼び続けた。声が枯れることを恐れずに。記録庫の深い沈黙の中で、蒼汰の声だけが壁に溶けては戻ってきた。
散乱した欠片の光が、次々に褪せていった。最後に残った紅色の欠片が一際強く輝き、そして——息を吐くように、消えた。
零花の肩から、力が抜けた。
蒼汰は一瞬、最悪の事態を想像した。しかし次に零花が深く息を吸い込む音を聞いて、その想像を手放した。長い息。眠りの底から浮上するときに人がつく、あの種類の息だった。
零花の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
しばらく、零花は焦点の定まらない目で虚空を見ていた。蒼汰は何も言わずに待った。零花が自分のいる場所を取り戻すための時間を、邪魔しないように。
やがて零花の目が、蒼汰の顔を捉えた。
瞬きをひとつ。それからもうひとつ。
「……蒼汰」
零花の声は、擦り切れた布のように薄かった。でも確かに、蒼汰の名前だった。
「ああ」と蒼汰は答えた。「ここにいる」
零花は何秒か黙っていた。蒼汰の袖を握ったままの指に、少しずつ体温が戻ってくるのが感じられた。
「聞こえた」
零花が言った。
「何が」
「あなたの声が」
零花の目が、蒼汰を真っ直ぐに見た。迷子が灯台を見つけたときの目に似ていた。だがそれよりも静かで、もっと深いところに根を張った確かさを持った目だった。
「たくさんの声があった。あの欠片たちの中に。悲しみも、怒りも、懐かしさも、全部違う人のものが一度に流れ込んできて、わたしがわたしでなくなりそうだった」
零花は言葉を選びながら話した。急がずに、ひとつひとつ確かめるように。
「でも、あなたの声だけが違った」
「どう違ったんだ」
「他の声は全部、誰かの記憶の中から来ていた。過去から来ていた」零花は小さく首を横に振った。「あなたの声は、今から来ていた。この場所の、この瞬間から。だからわかった。あれはわたしに向けられた声だって」
蒼汰は何も言えなかった。
「あの声は他の誰でもない、あなたの声だった」
零花が言い切った。その言葉には、感情の逆流にもみくちゃにされた後の、嘘のつけない静けさがあった。自分の感情が何なのかわからないと、零花はずっと言っていた。他者の感情を追体験するうちに、自分のものと他者のものの区別がつかなくなると。
だが今この瞬間、零花は迷っていなかった。
「蒼汰の声は、わたしのものだと思った」
零花は続けた。蒼汰の表情を窺うでもなく、ただ事実を述べるように。「それが正しい言い方かどうかわからない。でも他に言葉が見つからない。あなたの声を聞いたとき、これはわたしのためのものだと、そう感じた。それが他の誰かの感情の残滓ではなくて、わたし自身の感覚だと、初めてはっきりわかった」
石畳の冷たさが、蒼汰の膝から伝ってくる。記録庫の奥で、どこかの欠片が微かに鳴いていた。風もないのに揺れるような音。
蒼汰はゆっくりと口を開いた。
「そうか」
それだけしか言えなかった。でも零花は小さく頷いた。それで十分だとでも言うように。
二人はしばらく、石畳の上に並んでいた。立ち上がることを急がずに。零花の呼吸が整っていくのを、蒼汰は隣で聞いていた。袖を握る零花の手は、まだ離れていなかった。蒼汰も、そこから動かなかった。
やがて零花が静かに言った。
「欠片の中に、見たことのない記憶があった」
蒼汰の背筋が、かすかに緊張した。
「夜空じゃなかった。地図でもなかった。ただ、誰かが誰かの名前を呼んでいる記憶だった」零花は目を細めた。「その声が、あなたの声に少し、似ていた」
蒼汰は答えなかった。
答えられなかった、という方が正確だった。記録冊子のことが、脳裏をよぎった。霞鳥の言葉が、よぎった。夜宮が蒼汰の白紙の記憶に直接何かを刻んだという、あの言葉が。
零花が欠片の中に見た記憶が、誰のものなのか。
蒼汰にはまだ確かめる術がなかった。でも次にすべきことだけは、今よりずっと輪郭を持ち始めていた。
あの記録冊子を、開かなければならない。