書庫から持ち出したわけではない。けれど蒼汰の手は、ずっと何かを握りしめているような感触を覚えたまま、一向に解けなかった。

 三百年前。設計された夜空。師匠が知りながら語らなかった沈黙の重さ。それらが、夜の空気と混ざり合って蒼汰の肺の底に沈んでいた。

 零花と二人、観測塔の外壁に沿った細い路地を歩いた。灯りの乏しい道だったが、夜空には星座がいくつか瞬いていて、その白い光が石畳をぼんやりと照らしていた。——もっとも、三ヶ月前と比べれば、その光も随分と痩せていた。

「蒼汰」

 零花が言った。

「うん」

「師匠のことを、どう思ってるの」

 蒼汰は即答できなかった。怒りがないとは言えない。しかしそれ以上に、天弦老師の顔が浮かぶたびに胸が痛むのは、失望というより何か別のものだった。長い間ひとりで抱えていた人間の、孤独の匂いがした。

「わからない。まだ」

 零花は静かに頷いた。彼女は最近、感情を言語化しようとするときに少し間を置くようになった。自分の内側を確かめるような、丁寧な間だった。

 二人が路地の角を曲がったとき、前方に人影があった。

 細身の、若い女だった。歳は蒼汰と同じくらいか、少し上。暗い色の外套を纏い、帽子の鍔を深く落としていたが、その下の目つきは鋭く、こちらをまっすぐに見ていた。

「零花さん、ですね」

 声は低く、しかし穏やかだった。

「縹の——」

 零花が言いかけると、女は小さく首を振った。

「ご存知でしたか。俺……私は玻璃(はり)といいます。縹さんの下で働いています」

 蒼汰は反射的に零花の前に出た。縹の部下となれば、警戒して当然だ。しかし玻璃と名乗った女は攻撃的な気配を見せず、むしろ疲弊した人間の静けさを纏っていた。

「話したいことがある、と言われましたか」

 零花が玻璃に問いかけた。女はまた小さく頷いた。

「縹さんから、直接ではありません。ただ……私が、話したいんです」

 三人は路地裏の古い茶館に入った。客はほとんどおらず、隅の卓で老人が一人、ぼんやりと湯気を眺めているだけだった。

 玻璃は両手を卓の上に置き、しばらく湯飲みを見つめてから口を開いた。

「縹さんが闇市に入ったのは、四年前のことです。当時まだ十七でした」

 蒼汰は黙って聞いた。

「縹さんには、幼馴染みがいた。名前は……私は直接は知りません。縹さんが決して口にしないので。ただ、その人が透明化を始めたのが四年前で、それが全ての始まりでした」

 透明化。その言葉が蒼汰の胸に冷たく落ちた。記憶が消えるだけではなく、存在そのものが夜空から消え、やがて地上からも薄れていく現象。近年急増しているそれは、特効的な手段もなく、ただ時間とともに進行する。

「記憶が消えると、その人がいた痕跡も消えていく。縹さんは……その人の記憶を守りたかった。夜空に刻まれた星座が消える前に、何としても手元に置いておきたかった」

「それが記憶商人になった理由」

 零花が静かに言った。

「地図師ギルドに頼めなかったんですか」

 蒼汰が聞くと、玻璃は微かに口元を歪めた。苦さと、古い怒りが混じったような表情だった。

「頼みました。縹さんが十六のとき、ギルドの窓口に行って、幼馴染みの記憶を保存してほしいと頼んだ。でも——」

 女は湯飲みを両手で包んだ。

「ギルドが保存する記憶には優先順位があります。社会的な功績を持つ人物、希少な技術の担い手、歴史的に価値ある出来事の目撃者……。その人は、ただの町の子どもだった。優先度は低い、と言われたそうです。申請はできるが、いつ処理されるかわからない、と」

 蒼汰の手が、卓の上でかすかに握られた。

 天弦老師の言葉が脳裏を過った。——記憶は公共の財産である。個人的な感情で管理を乱してはならない。何度も聞いた言葉だった。正しいと思っていた。今でも、完全に間違いだとは言えない。

 しかし。

「それで、縹は自分で集め始めた」

「ええ。最初は記憶の欠片を探して、その人の星座が消える前に回収することだけを考えていた。でも、やっていくうちに……記憶を求める人間がどれだけ多いか、ギルドが見捨てた記憶がどれだけあるか、わかってきた」

 玻璃の声に、尊敬と哀しみが入り混じった。

「縹さんは冷酷に見えます。実際、仕事のときはそうかもしれない。でも根っこには、ただ一人の人間の記憶を守りたかった、それだけがある。私はそれを知っているから、ここにいます」

 零花が、ゆっくりと玻璃を見ていた。彼女の瞳が、僅かに揺れていた。他者の感情を追体験する力を持つ彼女が、今何を感じているのか、蒼汰には推し量れなかった。

「その人は今……」

 零花が問いかけた。

「末期です」と玻璃は言った。「記憶はほとんど縹さんが手元に置いている。でも本人は……もう自分が誰かも、あまり分からなくなっているらしい」

 しばらく、誰も喋らなかった。

 茶館の隅の老人が席を立ち、扉が開いて、夜の空気が薄く流れ込んだ。その瞬間、蒼汰は空を見た。星座がひとつ、以前より確実に暗くなっていた。誰かの記憶が、また少し、削れている。

「なぜ、私に話したんですか」

 零花が玻璃に訊いた。

 玻璃は少し考えてから、静かに答えた。

「縹さんが、あなたのことを気にしていたから。落下した記憶の欠片から生まれた存在なら……もしかしたら、記憶の消滅について何か知っているかもしれないと。でも縹さんは自分では会いに来ない。プライドの問題なのか、それとも別の理由か」

「縹さんは、私に何をしてほしいと?」

「何も。本当に何も言っていません」玻璃は首を振った。「ただ私が……見ていられなかっただけです。あの人がひとりで抱えているのを」

 零花は視線を卓に落とした。その横顔を、蒼汰は横目で見た。

 零花の表情は、今まで見たことのない種類の静けさをしていた。追体験の力で誰かの感情を受け取るとき、彼女はいつも微かに顔を歪める。苦しそうに、あるいは眩しそうに。しかし今は違った。何かが、彼女自身の内側から静かに滲み出てくるような——それが感情と呼べるものかどうか、蒼汰にはまだわからなかった。

「縹さんに伝えてください」

 零花が言った。

「話ができるなら、します。私が持っている記憶の欠片が、何かの手がかりになるかどうかはわからない。でも——守りたいものがある人と、私は話ができると思う」

 玻璃が、ほんの少し目を細めた。安堵とも、驚きとも取れた。

「ありがとうございます」

 三人は茶館を出た。玻璃は短く会釈をして、夜の路地に消えた。

 残された蒼汰と零花は、しばらく無言で並んで立っていた。

「零花」

「うん」

「縹のこと、嫌いじゃなかったんだな」

 零花はわずかに首を傾けた。

「嫌いかどうかも、まだよくわからない。でも……記憶を失うことが怖いっていう気持ちは、追体験じゃなくても少しわかる気がした」

 それは、零花が初めて「自分の気持ち」として語った言葉だった。

 蒼汰は何も言えなかった。代わりに、夜空を見上げた。消えかけた星座の隙間に、霞鳥の影がよぎったような気がしたが、定かではなかった。

 ただひとつ確かなのは、縹という人間の輪郭が今夜初めて、蒼汰の中でくっきりと結ばれたということだった。そしてその輪郭は、対立すべき敵のそれではなく、どこか自分自身に似た、白紙の地図を抱えた人間の形をしていた。

 ——守りたい記憶がある。それだけが、すべての始まりだった。

 蒼汰は歩き出した。零花がその隣に並んだ。二人の足音が、夜の石畳に刻まれていった。消えない足跡のように、あるいは消えてしまうものへの抵抗のように。

朽ちない星座と、忘れ屋の地図師

14

縹の過去

綾瀬 燈子

2026-05-26

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第14話 縹の過去 - 朽ちない星座と、忘れ屋の地図師 | 福神漬出版