地下への道は、いつも水の匂いがした。
廃棄された管路を伝って滲み出した古い地下水が、石畳の隙間で光を飲み込んでいる。透は鏡花から渡された照明端末を片手に、漣が教えてくれた旧区画の抜け道を一人で歩いていた。鏡花は「今夜は来るな」と言った。漣は「私には記録がある、あなたには足がある」と言った。だから透は一人だった。足が、あった。
三度目だと、透は思っていた。
零が現れるとき、いつも前触れがある。光が妙に屈折する。鏡のように磨かれたカガミアの壁面ガラスが、一瞬だけ正確な反射をやめる。透は自分の顔が歪んで映る瞬間に気がつくようになっていた。それが零の接近を告げるしるしだと、誰かに教わったわけではない。ただそう感じた。感じる、ということ自体がすでに、管理された行為の外側にある。
旧区画の最深部、かつて給水施設だったらしい丸天井の空間に入ったとき、透は立ち止まった。
そこにいた。
零は壁に背を預け、膝を抱えて座っていた。仮面がない。それだけで、この都市では存在しないも同然だった。照明端末の光が届くと、零はゆっくりと顔を上げた。年齢が読めない。少年とも中年とも取れる輪郭、磨耗しきった目。生きているとわかるのは、その目がたしかに透を見ているからだった。
「また来たね」と零は言った。声は低く、乾いていた。
「三度目だ」と透は答えた。「今度は逃げないでほしい」
「逃げていたわけじゃない」零はわずかに笑った。「準備ができていなかっただけだ」
透は少し離れた場所に腰を下ろした。水の染みた石床は冷たく、骨まで冷気が届くようだった。二人の間に沈黙が落ちた。だがそれは、互いを測るような沈黙だった。
「あなたは何者ですか」
透が問うと、零は天井を見上げた。丸天井の頂点には小さな亀裂があり、そこから糸のような光が落ちていた。地上のドームが発する人工光だ。カガミアは地の底まで、管理された光で満ちている。
「私は、廃止された人間だ」
透は聞き返さなかった。聞き返すべき言葉がわからなかった。
「百年前」と零は続けた。「感情管理省が七つの感情を禁忌に指定したとき、その感情を体内に持ったまま記録から消えた人間がいた。消されたんじゃない、自分で消えた。システムから逃れたんだ。だが逃れた人間は、カガミアにとって存在しない。存在しないものは廃止されたものと同じだ」
「人間が廃止される」と透は繰り返した。言葉は口の中で奇妙な重さを持った。「それは、どういう意味ですか」
零は少しだけ透に視線を向けた。
「君はチップを持っている」
「はい」
「そのチップが君の感情を記録する。記録された感情のデータが、感情バンクに蓄積される。君が泣いた日も、笑った日も、怒った日も、すべて数値になってバンクに入る。そしてアルマがそのデータに基づいて、君という人間の価値を算定する」
「価値」
「人間としての存在価値だ。感情的に安定しているか、社会的に有用か、感情のパターンが都市の秩序と調和しているか。それがカガミアにおける人間の存在条件だ。条件を外れたものは、廃止される」
透の胸の奥で何かが動いた。それは怒りに似ていたが、もっと根元にある何かだった。
「じゃあ、あなたは」
「私は百年前に廃止されるはずだった。〈渇望〉を持っていたから。だが廃止される前に、私は自分のチップデータを焼いた。記録を消した。記録のない人間はシステムに存在しない、だからシステムは廃止することもできない。私はずっとそうやって生きてきた」
ずっと、という言葉が引っかかった。
「百年前、と言いましたね」
「ああ」
「あなたは百年生きているんですか」
零は答えなかった。それが答えだった。
透は自分の手を見た。仮面工場で鍛えた指先。毎日型を磨き、樹脂を流し込み、誰かの顔の形を量産してきた手。その手も、チップが刻んだデータとして記録されている。今日の生産量、心拍数の揺れ、わずかな感情の起伏。すべてがバンクの中にある。
「廃止、というのは」透は慎重に言葉を選んだ。「死ぬことですか」
「違う」零は静かに言った。「死よりも静かなことだ。存在を、上書きされる」
「上書き」
「感情データをすべて初期化し、新しい感情パターンを書き込む。記憶も、自我も、好みも、恐れも、全部消して、代わりに都市の調和に適した感情の束を入れる。体は生きている。呼吸もする。働きもする。だがそれはもう、その人間じゃない」
透は口を閉じた。
丸天井の亀裂から落ちる光の筋が、床の水溜まりに当たって揺れていた。揺れているのに、その揺れは数値化されているのだろう、とふと思った。光の波長も、水面の振動も、カガミアは全部測ることができる。測れないものだけが、この都市では危険とみなされる。
「あなたの名前は」と透は言った。「零というのが本当の名前ですか」
「本当の名前というものが、百年前に存在したかどうかも、もう怪しい」
それは悲しいことを言っているのに、零の声には悲嘆がなかった。悲嘆を超えた場所にある静けさ、というものがあるとしたら、それが零の声だった。
「透」と零が初めて透の名を呼んだ。
透は顔を上げた。
「君が拾った仮面に〈渇望〉が宿っていたのは偶然じゃない。あれは私が流したものだ」
透の全身が静止した。
「なぜ」
「君が、必要だったから」
「なぜ私が」
零は答えずに立ち上がった。立ち上がると、その体は照明端末の光の縁に溶け込むようにして輪郭が曖昧になった。この人は本当にここにいるのか、と透はまた思った。三度目でも、その疑問は消えない。
「次に会うとき、もう一層だけ話す」と零は言った。「その前に、君は礎に会いなさい。礎がアルマの元研究者だということは知っているね」
「鏡花から聞いた」
「礎はある実験の生き残りだ。その実験の名前を聞いてから、また私に会いに来なさい」
透が「待ってください」と言うより先に、零の姿は水の匂いの中に消えていた。
残されたのは透一人だった。石床の冷たさと、天井の亀裂から落ちる光と、静寂だった。
透は膝の上に手を置いて、しばらく動けなかった。
人間が廃止される。
その言葉が頭の中で反響していた。廃止されても体は生きている、という事実が、死よりも重い何かとして透の胸に刺さっていた。死ならばまだわかる。透はこれまでに死んだ人間を見たことがある。仮面工場の老いた先輩が、ある朝突然来なくなった。それは死だと誰かが教えてくれた。
だが上書きされた人間は、どこかで笑っているのだ。自分がかつて〈渇望〉を持っていたことも知らずに、都市の秩序の中で正しく呼吸しながら。
それが透には、たまらなく悲しいことに思えた。
悲しい、とチップが記録するだろう。その数値がバンクに送られ、アルマの下で算定されるだろう。透は自分の胸元に手を当てた。皮膚の下にある小さな機械の存在を、今夜はいつもより強く感じた。
水が石を噛む音が、暗闇の奥からしていた。
礎という老人の顔を、透は思い浮かべた。鏡花の師であり、アルマの元研究者であり、今は廃区画の片隅で仮面の修繕を続けているという人物。透はまだその人に会ったことがない。
ある実験の生き残り。
その言葉が、零の声で繰り返した。透は立ち上がり、照明端末を握り直した。出口へ向かう足が、行きよりもずっと重かった。地上の光の中に戻っていくことが、今夜だけは怖かった。
管理された光の下では、悲しみすら正しく数値化される。
透はそれを知りながら、それでも地上へ続く石段を一段ずつ上った。消えない問いを胸に抱えたまま、仮面のない顔で。