地下へ降りる梯子は、錆の匂いがした。

 鏡花が先に消え、漣が続き、透は最後に足を踏み出した。ハッチの縁に手をかけた瞬間、上の世界の冷たい蛍光灯がすうっと遠くなった。代わりに下から届いてくるのは、なにか橙色の、柔らかな気配だった。

 梯子を下り切ると、そこは廊下ではなかった。空洞だった。かつて配管が通っていたらしい巨大な管状の空間が、まるで大地に穿たれた肺のように広がっていた。天井の鉄骨に何十本もの細いコードが張り巡らされ、古い電球が連なって橙と黄の光を滲ませている。球の一つ一つは頼りなく瞬いているのに、集まると揺るぎなかった。それが不思議だと透は思った。

 音が、した。

 最初は振動だった。足の裏から這い上がってくる低い波紋。それが耳に届いたとき、透はそれを「音楽」と認識するよりも先に、胸の奥の何かが動いた。チップが感情値を計測するより速く。数値になる前の、生の揺れ。

 「来た来た」

 鏡花が言った。珍しく、声に色があった。普段の彼女の言葉は仮面の縁で削がれたように平坦だが、今夜は違う。透は隣を見た。彼女は今夜、素焼きの欠けた仮面をつけていた。目の周りだけを覆う、小さなもの。だからいつもより多く、彼女の輪郭が見えた。

 空洞の奥へ進むと、人がいた。

 五十人、いや、もっとか。老人、若者、子供の姿さえある。誰もが仮面を外していた。というより、仮面を持っていないようだった。顔が、ある。顔が、ある。目があり、鼻があり、唇があり、その全部が今この瞬間に動いている。笑っている者がいた。目を閉じて音楽に揺れている者がいた。隅の方で膝を抱えて泣いている若い女がいて、隣の老婆がその背を黙って撫でていた。

 透は足が止まった。

 漣が後ろで小さく息を呑む音がした。二十年間感情管理省に勤めてきた男が、今夜初めて見るものを見ている。透も同じだった。カガミアで生まれ、仮面工場で育ち、感情値が基準を超えれば調整を受けてきた透には、これが何なのか説明する言葉がなかった。

 強いて言えば、これが人間なのだと思った。

 「怖いか」

 鏡花が低く言った。

 「怖くない」

 透は答えてから、それが嘘ではないことに気づいた。怖くなかった。警戒はしていた。漣との三人でここに来ることを決めたのは三日前で、その間ずっと背中に冷たいものを感じていた。しかし今この空洞に立って、音楽と体温と光の中にいると、警戒が溶けていくのが分かった。チップが警告を出す前に、身体が先に許していた。

 音楽の中心に、三人の演奏者がいた。

 一人は弦を張った木の板を膝に乗せて弦を弾き、一人は鉄の管を唇に当てて細い音を吹き、もう一人は古い打楽器を掌で叩いていた。三者の音が絡み合って生まれるものは、規則正しくなかった。リズムが揺れ、音程が滑る。カガミアの公式音楽に流れる精密な和声とは全く違う。それでも、あるいはだからこそ、透の胸郭の中で何かが共鳴した。

 「初めての者には、ここが混乱して見えるらしい」

 声が来た。

 振り向くと、老人がいた。

 背が低く、皮膚は紙のように薄く皺が刻まれていたが、目だけが異様に若かった。黒ではなく、透明に近い灰色の瞳。仮面は、していなかった。カガミアでは成人以降、公共空間での仮面着用が義務だ。この老人はその義務を生まれてこのかた一度も守ったことがないような顔をしていた。

 「礎、と呼ばれている」

 老人は言った。自己紹介というより確認のような口調だった。

 「白瀬透です」

 「知っている。鏡花から聞いた。それと、あちらは漣庸介か。感情管理省の」

 漣が僅かに身を固くした。礎は構わず続けた。

 「ここに来た省の人間は、あんたが初めてじゃない。だが生きて帰した人間は少ない。あんたをどうするかは、あんたが今夜何を持って帰るかによる」

 「脅しですか」

 漣が静かに言った。

 「事実だ」

 礎は笑った。しわの全部が動いた。

 「まあ、今夜は祭だ。難しい話は後でいい。とりあえず、座れ」

 音楽はずっと鳴っていた。

 透は言われるままに、積み上げられた古い木箱の傍に腰を下ろした。誰かが器に入った温かいものを差し出してきた。顔を見ると、十歳ほどの子供だった。仮面を持っていない。鼻に薄い火傷の跡があった。目が笑っていた。

 「飲んで」

 子供は言った。

 「これは何」

 「草のお茶。苦いけど、温かい」

 透は受け取って、飲んだ。苦かった。温かかった。喉を通って、胃に落ちて、そこから全身に広がっていく温度があった。数値には出ない何かが、身体の内側に灯った気がした。

 音楽が変わった。演奏者の一人が立ち上がり、歌い始めた。言葉ではなかった。音節の連なりだったが、意味の代わりに感触があった。透は目を閉じた。まぶたの裏で橙の光が揺れた。

 喜んでいる、と思った。

 初めて思った。

 渇望は知っていた。あの焼けるような感覚は身体に刻まれている。しかしこれは違う。もっと穏やかで、もっと広い。渇望が点だとすれば、今感じているものは面だった。自分が今ここにいることを許されている感覚。存在が肯定されているような、奇妙な安堵。

 「最初に来た夜は、俺も泣いた」

 隣で礎が言った。いつの間にか隣に座っていた。

 「泣いたんですか」

 「恥ずかしいことじゃない。人間が人間に会ったとき、泣くのは正常だ。カガミアが異常なだけで」

 透は礎を見た。老人の皺の間に、穏やかなものがあった。

 「ここの人たちは、いつからいるんですか」

 「ドームが完成した翌年から、少しずつ集まってきた。最初は七人だったそうだ。俺が来たのは四十年前。その頃は三十人ほどだった」

 「今は」

 「この街に、四百人ほど。他の地下区画に繋がりのある集落を入れれば、もっといる」

 四百人、と透は心の中で繰り返した。カガミアの総人口は二十万を超える。しかし今夜ここにいる五十人の顔の方が、工場の同僚たちの顔より鮮明だった。仮面がないからだけではなかった。ここにいる人たちは、今この場所に存在していた。管理システムの中に在るのではなく、ここに、在った。

 鏡花が少し離れた場所にいた。老人たちに囲まれて何かを話している。珍しく手を使って語っていた。仮面の奥で、表情が動いているかもしれなかった。

 漣は壁に背を当てて立っていた。腕を組んで、目だけで空間を読んでいた。二十年間の習慣が染み込んだ観察眼が、今夜は違う色をしていた。記録するための眼差しではなく、ただ見ている。ただ、見ている。

 透は草のお茶の二杯目を受け取った。

 「透」

 礎が呼んだ。

 「はい」

 「あんたは何かを探している顔をしている。鏡花が連れてくる人間は、いつもそういう顔だ。だが、あんたのは少し違う」

 「どう違うんですか」

 礎は少し考えた。音楽がゆっくりと低くなっていくのと同じ速度で、老人は口を開いた。

 「他の人間は、失ったものを探している。あんたは、まだ持ったことのないものを探している。それは辛い探し方だ」

 透は返す言葉を持たなかった。

 辛い、という感覚が胸に落ちてきた。しかし不思議と、今夜はそれが痛くなかった。この空洞の橙の光の中では、辛さもただの輪郭だった。あってよいものだった。

 歌が終わった。

 拍手が起きた。仮面のない手が、肌の合わさる音を立てて叩かれる。その音は精密ではなく、揃っておらず、しかし確かに喜びだった。透も手を叩いた。自分の手が動くのを、少し遠くで眺めるような感覚があった。それでよかった。

 夜が深くなった。人々は少しずつ散り、また集まり、何かを食べ、何かを語った。透は音楽と声の中に、それほど長い時間をかけずに溶け込んでいた。警戒の膜が完全に消えたのがいつかは分からなかった。気づいたら、消えていた。

 帰り際、礎が透の袖を引いた。

 「次に来るとき、一つ持ってきてほしいものがある」

 「何ですか」

 礎は透の目を見た。灰色の、透明に近い瞳。そこに浮かんでいるものを透は読み取れなかったが、重要なものであることは分かった。

 「七番目の感情の記録だ」

 透は息を止めた。

 七つの感情。百年前に廃止されたとされる、禁忌の感情体系。透が渇望に触れたとき、鏡花が初めて口にした言葉。

 「なぜ私が」

 「あんたの中にある。まだあんた自身は気づいていないだろうが」

 礎はそれだけ言って、闇の奥へ戻っていった。橙の光が揺れた。電球の一つが、ふと消えた。

 透は梯子を上りながら、胸の中にある温かさを確かめた。消えていなかった。地上の蛍光灯の冷たさの中でも、まだそこにあった。

 持ったことのないものを探している。礎の言葉が耳の奥に残っていた。

 そしてそれは今夜、少しだけ形を持った気がした。

硝子の都市と百の仮面

26

地下街の祭

御影 澄架

2026-06-07

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第26話 地下街の祭 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版