放課後の校庭で、美月は再び百年桜の下に立っていた。昨日千鶴さんの声を聞いてから、この場所が特別な意味を持つようになった気がする。風に揺れる桜の枝を見上げると、まるで時の流れそのものが見えるような不思議な感覚に包まれる。
「美月ちゃん、今日も来たのね」
聞き覚えのある、優しく凛とした声が聞こえた。千鶴さんだった。美月は自然と微笑んでいた。
「千鶴さん。昨日お話しした教師になりたいという夢のこと、ずっと考えていました」
「ありがとう。そんなふうに思ってもらえるなんて、本当に嬉しいの」
桜の葉が風に舞い、陽だまりが美月の頬を温かく包む。明治という遠い時代の人なのに、千鶴さんの存在はとても身近に感じられた。
「千鶴、また一人で考え込んでいるの?」
突然、別の声が聞こえた。千鶴さんよりも少し高く、明るく弾んだ声だった。美月は驚いて辺りを見回す。
「あら、春香」千鶴さんの声に笑いが混じった。「今日も元気ね」
「当たり前よ。それより、誰かいるの? 千鶴の声の調子がいつもと違う」
美月は息を呑んだ。春香さんも美月の存在を感じ取っているのだろうか。
「実は…」千鶴さんが説明しようとしたとき、春香さんの声が割って入った。
「もしかして、未来の人? 本当にいるのね!」
その声には驚きより興奮が含まれていて、美月は思わず声に出してしまった。
「え、私のことが分かるんですか?」
「やっぱり! 千鶴から話は聞いていたのよ。私、宮本春香。よろしくね、未来のお嬢さん」
春香さんの人懐っこい声に、美月の緊張はすぐにほぐれた。
「田中美月です。よろしくお願いします」
「美月ちゃんって言うのね。素敵な名前! ねえ千鶴、これって本当に不思議よね。百年も先の人とお話しできるなんて」
千鶴さんが苦笑いしているのが声の調子でわかった。
「春香はいつも私より物事を受け入れるのが早いの。でも、そんなところが私は大好きなの」
「あら、急にどうしたの千鶴」春香さんの声が照れくさそうになった。「美月ちゃんに恥ずかしい思いをさせてしまうじゃない」
二人のやり取りを聞いていると、深い友情で結ばれていることがよく伝わってきた。美月は温かい気持ちになった。
「お二人、とても仲がいいんですね」
「ええ」千鶴さんが答えた。「春香は私にとってかけがえのない友人よ。この女学校で出会えたことは、人生の宝物だと思っているの」
「千鶴ったら」春香さんの声が弾んだ。「でも私も同じ気持ち。千鶴がいなかったら、きっと私はもっとわがままで浅薄な娘のままだったでしょうね」
「そんなことないわ。春香は最初から聡明で勇敢だった」
美月は二人の会話を聞きながら、羨ましさを感じていた。現代でも友情はあるけれど、この二人のような深い結びつきを持った友人がいるだろうか。
「美月ちゃん、あなたにも親しいお友達はいるの?」春香さんが尋ねた。
「はい。親友と呼べる人もいます。でも、お二人のような…」
「時代は違っても、友情の本質は変わらないと思うの」千鶴さんが優しく言った。「大切なのは、相手のことを真剣に思いやる気持ちよ」
「そうそう」春香さんが同調した。「それに、美月ちゃんにはこれから素敵な出会いもたくさん待っているはずよ。私たちの時代よりずっと自由でしょう?」
美月は頷きながら答えた。
「確かにそうですね。女性が学べる機会も、職業を選ぶ自由も、春香さんたちの時代とは比べものにならないほど広がっています」
「まあ、本当に?」春香さんの声が輝いた。「どんなお仕事に就けるの?」
「女性の医師、弁護士、教師はもちろん、会社の社長になる人もいます。政治家もいるんですよ」
「政治家!」春香さんが息を呑んだ。「千鶴、聞いた? 女性が政治に参加できる時代が来るのよ」
「すばらしいことね」千鶴さんの声にも感動が込められていた。「私たちが夢見ていたことが現実になっているのね」
美月は突然、申し訳ない気持ちになった。当たり前だと思っていた自分の環境が、どれほど多くの人々の願いと努力の上に成り立っているかを実感したのだ。
「でも」美月は正直な気持ちを伝えた。「私たちの世代は、そうした自由を当然のこととして受け取ってしまっているところがあります。春香さんたちのように、心から学ぶ喜びを感じているかどうか…」
「それでいいのよ」春香さんが力強く言った。「私たちの時代の制約を知らずに済むなら、それが一番幸せなこと。ただ、時々でいいから思い出してもらえたら嬉しいわ」
「春香の言う通りね」千鶴さんが続けた。「美月ちゃんたちには、私たちが諦めるしかなかった夢を実現する力がある。それだけで十分よ」
美月の目に涙が浮かんだ。二人の寛大さと優しさに胸が熱くなった。
「お二人は、どんなふうに友達になったんですか?」
「それはね」春香さんが楽しそうに語り始めた。「入学したばかりの頃、私が授業中に居眠りをしてしまって、先生に叱られたの。その後、千鶴が私に声をかけてくれたのが始まり」
「春香は疲れていたのよ」千鶴さんが補足した。「お家の商売を手伝っていて、夜遅くまで働いていたから」
「千鶴だけは私の事情を理解してくれた。それからは互いに支え合って、一緒に勉強するようになったの」
美月は想像した。明治時代の女学校で、異なる境遇の二人が出会い、深い絆を築いていく様子を。きっとお互いにとって、かけがえのない存在だったのだろう。
「美月ちゃん」千鶴さんが呼びかけた。「私たちのことを覚えていてもらえる?」
「もちろんです」美月は迷わず答えた。「お二人のことは絶対に忘れません」
「ありがとう」春香さんの声が弾んだ。「千鶴の夢も、よろしくね」
風が強くなり、桜の葉がより激しく舞い始めた。二人の声が少しずつ遠くなっていく。
「また明日も来ます」美月は声に出して伝えた。
「待っているわ」
二人の声がハーモニーのように重なって、やがて風の音に溶けていった。
美月は桜の木を見上げた。この木が結ぶ縁の不思議さに改めて感動していた。千鶴さんと春香さん、二人の友情の美しさは、時代を超えて美月の心に深く刻まれた。
そして美月は思った。自分にも、こんなふうに心を通わせられる友人がいるだろうか。佐藤君のことを思い浮かべると、頬が少し温かくなった。彼なら、この不思議な体験も信じてくれるはずだ。
明日は佐藤君にも春香さんのことを話してみよう。そして三人で、もっと過去のことを調べてみたい。きっと他にも知らない物語が隠されているに違いない。
美月は桜の木に軽く手を触れてから、校舎へと向かった。夕日が校庭を黄金色に染めて、百年前と変わらぬ美しさで美月を送り出していた。