八月の終わりが近づいた午後、美月は一人で桜の木の下に座っていた。夏の強い陽射しも、古い桜の枝葉が作る木陰の中では心地よい涼しさに変わる。それでも美月の心は、どこか重く沈んでいた。
「今日も子どもたちが頑張って勉強してくれました」
美月は桜の幹に手を置きながら、いつものように空に向かって呟いた。もう何度繰り返したかわからない、一人だけの報告会。千鶴と春香の姿を見ることができなくなってから、もう一ヶ月以上が経っていた。
「みんな、算数が少しずつできるようになって。漢字も上手に書けるようになったんです。千鶴さんが言っていた通り、子どもたちの成長を見ていると、本当に嬉しくて」
風が木の葉を揺らし、さらさらと音を立てる。美月はその音に耳を澄ませたが、もう声は聞こえてこない。
「でも、私一人だけで、本当に二人の想いを継承できているのでしょうか」
美月の声が次第に小さくなっていく。学習支援の活動は順調に進んでいる。子どもたちは美月を慕い、保護者からも感謝の言葉をもらっている。けれど美月の心の中には、いつも迷いがあった。
「私のやっていることは、本当に正しいのかな」
その時、後ろから足音が聞こえた。振り返ると、健人が汗を拭きながら歩いてくるのが見えた。
「お疲れさま。今日も子どもたちが頑張ってたね」
「健人くん。お疲れさまでした」
美月は慌てて立ち上がろうとしたが、健人は手を振って制した。
「そのままでいいよ。僕も少し休憩したかったから」
健人は美月の隣に腰を下ろし、桜の幹に背中を預けた。しばらく二人とも無言のまま、校庭を見渡していた。
「美月、最近元気がないように見えるけど、何か悩んでる?」
健人の言葉に、美月は驚いて顔を向けた。
「そんなことは」
「嘘だね」健人は優しく微笑んだ。「美月のことは、もうずいぶん見てきたから、わかるよ。子どもたちと一緒にいる時は笑ってるけど、一人になると考え込んでる」
美月は言葉に詰まった。健人の言う通りだった。最近の美月は、活動中は明るく振る舞っていても、心の奥では常に不安を抱えていた。
「千鶴さんと春香さんに、もう会えないことですか?」
健人の問いかけに、美月はゆっくりと頷いた。
「もう一ヶ月以上、お二人の姿を見ていません。声も聞こえない。でも、私にはまだやらなければならないことがあるのに」
「美月は一人じゃないよ」
健人の声は穏やかだったが、確固とした信念が込められていた。
「僕がいる。それに、美月の活動に共感してくれる人たちもたくさんいる。確かに千鶴さんと春香さんの存在は特別だったかもしれないけど、美月が受け継いだ想いは、もう美月自身のものになっているんじゃないかな」
「私自身の、もの」
「そうだよ。最初は二人から受け継いだ想いだったかもしれない。でも今の美月を見ていると、それが美月の心の中で育って、美月なりの形になっている。子どもたちへの接し方、教える時の優しさ、一人ひとりを大切にする気持ち。それは間違いなく美月のものだ」
美月は健人の言葉を噛み締めた。確かに、学習支援を始めた頃と今とでは、自分の気持ちも変化していた。最初は千鶴と春香の想いを形にしたいという思いが強かったが、今は子どもたち一人ひとりの成長が純粋に嬉しいと感じている。
「でも、私が本当に正しいことをしているのか、時々わからなくなるんです」
「正しいかどうかなんて、誰にもわからないよ」健人は空を見上げながら言った。「でも、美月の活動を見ていて思うのは、美月が心から楽しそうだということ。そして、子どもたちも本当に嬉しそうだということ。それって、とても大切なことじゃないかな」
美月は健人の横顔を見つめた。いつも冷静で頼りになる健人だが、今日はいつもより優しさが際立って見えた。
「健人くんは、どうして私のことを支えてくれるんですか」
「それは」健人は少し照れたように頬を染めた。「美月が頑張っている姿を見ていると、僕も頑張りたくなるから。それに、美月の活動は本当に素晴らしいと思うから。郷土史研究部の活動をしていても、過去のことを調べるだけで終わってしまうことが多いけど、美月は過去から受け継いだものを現代で実現している。それってすごいことだよ」
「ありがとう」美月の目に涙が浮かんだ。「健人くんがいてくれて、本当に良かった」
「こちらこそ」健人は桜の幹に手を置いた。「この桜の木がつないでくれたご縁かもしれないね」
その時、夕方の風が桜の葉を大きく揺らした。さらさらという音が、まるで何かを語りかけているように聞こえる。
「ねえ、健人くん」美月は急に思いついたように言った。「今度の活動で、子どもたちに学ぶことの大切さを話してみませんか。勉強は誰かに強制されてするものじゃなくて、自分の可能性を広げるためのものだって」
「いいね。どんな風に話すの?」
「昔の女学生たちのことを話そうと思うんです。学びたくても学べない時代があったこと。それでも学ぶことを諦めなかった人たちがいたこと。その想いが今の私たちにつながっていること」
美月の瞳が輝いていた。健人は、久しぶりに見る美月の生き生きとした表情に安堵した。
「美月らしい素晴らしいアイデアだね。僕も手伝うよ」
「本当ですか。ありがとうございます」
美月は桜の幹に向かって小さく手を合わせた。
「千鶴さん、春香さん。お二人から受け継いだ想いを、私なりの形で大切にしていきます。そして、子どもたちにも伝えていきます」
夕陽が校庭に長い影を落とし始めていた。美月と健人は桜の木の下でしばらく話し続け、これからの活動について具体的な計画を立てた。美月の心は、久しぶりに軽やかになっていた。
一人ではない。健人がいる。そして、自分が受け継いだ想いは、確実に子どもたちの心にも届いている。千鶴と春香に直接報告することはできなくても、その想いは形を変えて生き続けている。
「明日からまた、頑張りましょう」
「うん。一緒に頑張ろう」
二人が立ち上がった時、桜の枝がまた大きく揺れた。まるで、誰かが優しく頷いているかのように。