桜の季節が深まりを見せる中、私は桜の木の下で千鶴と春香を待っていた。前回の春香の決意表明から数日が過ぎ、私たちの間には新たな絆が生まれていたが、同時に何かが変わり始めていることも感じていた。
風が吹くたび、桜の花びらが舞い散り、青空に薄紅色の雲を描いている。しかし、以前ほど鮮やかに見える時代の境界線が、今日はなぜかぼんやりとしていた。
「美月さん」
千鶴の声が聞こえたが、いつもより遠く、霞がかかったように聞こえる。振り返ると、彼女の姿も薄く、まるで水彩画の絵の具が滲んだような印象だった。
「千鶴さん、どうしたの?なんだかいつもと違って見えるけれど」
「私も感じています。何だか、あなたとの距離が遠くなったような……」
千鶴の表情には困惑が浮かんでいた。彼女の後ろから春香も現れたが、その姿もやはり以前ほどはっきりとは見えない。
「美月ちゃん、聞こえる?」
春香の声も断続的で、時々途切れてしまう。私は桜の幹に手を当て、懸命に集中しようとした。
「聞こえるわ、春香さん。でも、なんだか不安定ね」
「そうなのです。昨日から急に、この場所にいても心が落ち着かなくて」
千鶴が困ったように眉を寄せる。私は桜の木を見上げた。満開だった桜は確実に散り始めており、青い葉が顔を覗かせ始めている。
「もしかして、桜の季節が終わりに近づいているから……」
私の呟きに、二人の表情が曇った。
「それは、つまり」春香が言いかけた時、彼女の姿がふっと薄くなり、声が途切れた。
「春香さん!」
私は慌てて呼びかけたが、しばらく返事がない。千鶴も不安そうに辺りを見回している。
「美月さん、私たちの時間が……」
千鶴の声も途切れがちになる。私は必死に桜の幹に両手を当て、心を集中させた。すると、二人の姿が再びはっきりと見えるようになった。
「戻った」私はほっとため息をついた。
「今のは一体……」春香が震え声で呟く。
「恐らく、この桜の力が季節と共に変化しているのでしょう」千鶴が落ち着いた口調で分析する。「私たちが出会えたのも桜の不思議な力によるもの。その力が弱まれば……」
彼女は最後まで言わなかったが、私たちには分かっていた。別れの時が近づいているということを。
「でも、まだお話ししたいことがたくさんあるのに」春香が切ない声で言う。
「私もよ。千鶴さんの夢のこと、春香さんの決意のこと、もっと知りたいし、私も現代のことをお話ししたいの」
その時、また二人の姿がゆらゆらと揺れ始めた。今度は私も集中しようとしたが、なかなか安定しない。
「だめ、うまくいかない」
焦る私を見て、千鶴が穏やかな笑みを浮かべた。
「美月さん、焦ってはいけません。このような時こそ、心を静めて」
「でも、このままだとあなたたちと話せなくなってしまう」
「それならば」春香が明るい声を出す。「限られた時間を大切に使いましょう。美月ちゃんに伝えたいことがあるの」
私は深呼吸をして、心を落ち着かせた。すると、二人の姿が少し鮮明になった。
「何を話したいの?」
「実は」春香が真剣な表情になる。「父との話し合いの続きがあったのです。私が縁談を断り、自分の道を歩みたいと話した後、父が意外なことを言ったの」
「どんなこと?」
「『お前のような娘を持って、本当は誇らしいのだ』って」
千鶴も私も驚いた。
「まあ、それは」
「でも、同時に『しかし、この時代では女性が自由に生きることの困難さも理解してほしい』とも言われました」
春香の表情に複雑な感情が浮かんでいる。
「それで、どうなったの?」
「父は、海外で学ぶ機会があるかもしれないと言ってくれました。でも、それは千鶴さんと離れることを意味するかもしれない」
千鶴の表情が少し曇った。
「春香さんらしい選択肢ね」千鶴が微笑む。「私は、あなたが自分の道を見つけることを応援しているわ」
「千鶴さん……」
その時、また二人の姿が不安定になった。今度はより深刻で、声も小さくなっていく。
「時間が……」千鶴が掠れた声で言う。
「待って、まだ話し足りない」
私は桜の木に額を押し当て、必死に二人とのつながりを保とうとした。しかし、桜の力は明らかに弱まっている。
「美月ちゃん」春香の声が遠くから聞こえる。「もしかしたら、これが最後になるかもしれないから、言っておきたいの」
「最後だなんて、そんな」
「あなたに出会えて、本当に良かった。現代には、私たちが夢見た世界があるのね」
千鶴も頷く。
「美月さん、あなたは私たちの希望です。私たちが実現できなかった夢を、あなたの時代で叶えてください」
「そんな、私一人では」
「一人ではありません」千鶴の声が優しく響く。「あなたには健人さんがいる。そして、これから出会う多くの人たちがいる」
二人の姿がさらに薄くなっていく。私は涙を堪えながら、最後の言葉を伝えようとした。
「千鶴さん、春香さん、私はあなたたちを忘れない。そして、必ずあなたたちの想いを受け継いで」
「ありがとう」
二人の声が重なって聞こえた後、静寂が戻った。桜の木は変わらずそこに立っているが、もう明治の時代の気配は感じられない。
私は桜の木の下に座り込み、しばらく呆然としていた。風が吹き、桜の花びらが私の頬を撫でていく。
「美月?」
振り返ると、健人が心配そうな顔で立っていた。
「健人君……」
「どうしたんだ?泣いているのか?」
私は自分の頬が濡れていることに気づいた。
「千鶴さんと春香さんと、話せなくなってしまったの」
健人は私の隣に座り、静かに話を聞いてくれた。私は今日起こったことを全て話した。
「そうか……季節の変化と共に、つながりが弱くなったんだな」
「このまま、もう二度と会えないのかしら」
健人は桜の木を見上げた。
「分からない。でも、君が彼女たちから受け取ったものは、確実にここにある」
健人が私の胸を指差す。
「君の心の中に、彼女たちの想いが生き続けている限り、つながりは決して消えない」
私は健人の言葉に少し慰められた。しかし、もう千鶴と春香の声を聞けないかもしれないという寂しさは、簡単には消えそうになかった。
夕日が桜の木を赤く染める中、私は静かに決意を新たにしていた。たとえ直接話すことができなくなっても、彼女たちの想いを現代で実現していくことが、私の使命なのだと。