桜学舎の活動を本格的に始めてから一ヶ月が過ぎた頃、現実という名の重い壁が美月たちの前に立ちはだかった。
それは十月の半ばの放課後のことだった。美月と健人は図書館で、これまでの活動記録を整理していた。参加者リストを見ながら、健人が深刻な表情で口を開く。
「美月、ちょっと話があるんだ」
「何?」
健人は手元の計算用紙を見つめながら、ため息をついた。
「資金の問題なんだ。今のところ、僕たちは自費で教材を用意してきたけど、参加者が増えるにつれて、どうしても必要な費用がかさんでいる」
美月の手が止まった。確かに、プリント代、参考書、文房具など、細かい出費が積み重なっていることは薄々感じていた。
「どのくらい足りないの?」
「今月だけで三万円近く。このままだと、来月は続けられない」
三万円。高校生にとっては大きな金額だった。美月はアルバイトをしていないし、お小遣いだけでは到底まかなえない。
「それに、場所の問題もある」
健人は続けた。
「図書館や空き教室を借りているけど、毎回確保するのが難しくなってきた。他の部活動や学校行事の準備で、使える場所が限られているんだ」
美月は手帳を開いて、これまでの活動を振り返った。確かに、先週は教室が確保できず、急遽廊下の隅で勉強を教えることになった。参加している中学生たちにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「でも、みんな楽しみにしてくれているし…」
「分かってる。だからこそ、何とかしたいんだ」
健人の声に、美月と同じ想いが込められていることが伝わってきた。
その日の夜、美月は自分の部屋で一人、電卓を叩いていた。貯金通帳を見ても、せいぜい一万円程度。それでは一時しのぎにしかならない。
窓の外を見ると、校庭の桜の木が月光に照らされて、静かに佇んでいる。美月は思わずその木に向かって語りかけた。
「千鶴さん、春香さん…私たち、どうしたらいいんでしょう」
しかし、返ってくるのは秋の冷たい風の音だけだった。
翌日の昼休み、美月は健人と一緒に学校の近くを歩きながら、解決策を模索していた。
「スポンサーを探すっていうのはどうだろう?」健人が提案した。
「地元の商店街とか、企業に協力をお願いするの?」
「そう。教育支援として理解してもらえるかもしれない」
しかし、現実はそう甘くはなかった。商店街の店主たちは皆親切に話を聞いてくれたが、どこも経営が厳しく、支援する余裕がないと言われた。
「申し訳ないけど、うちも精一杯でね」
「いい活動だとは思うんだけど…」
同じような返事が続いた。美月は次第に心が重くなっていく。
夕方、二人は疲れ果てて桜の木の下のベンチに座り込んだ。
「やっぱり、現実は厳しいね」健人がぽつりと呟いた。
美月は膝に置いた手を握りしめた。これまで順調に進んでいると思っていた桜学舎が、お金という現実的な問題で頓挫しそうになっている。理想だけでは何も実現できないという現実を、改めて痛感した。
「私、甘かったのかな」美月は小さな声で言った。「千鶴さんたちの想いを受け継ぐって言って、でも結局、お金がなければ何もできない」
「そんなことない」健人は美月の方を向いた。「君がやってきたことは間違ってない。ただ、もう少し現実的に考える必要があるってだけだ」
「現実的に…」
美月は桜の木を見上げた。葉っぱがほとんど散って、枝だけになった姿が、何だか寂しく見える。
その時、学校の方から声が聞こえてきた。振り返ると、中学生の田村さんが駆け寄ってくる。
「美月先輩、健人先輩!」
「田村さん、どうしたの?」
田村さんは息を切らしながら、封筒を差し出した。
「これ、みんなからです」
「みんなから?」
封筒を開けると、中には千円札が数枚と、手紙が入っていた。
『美月先輩へ。いつも勉強を教えてくれてありがとうございます。お金がかかって大変だと聞きました。僕たちも協力したいので、お小遣いを持ち寄りました。少しですが、使ってください。桜学舎がなくなったら困ります。よろしくお願いします』
手紙の最後には、参加している中学生全員の名前が丁寧な字で書かれていた。
美月は思わず涙があふれそうになった。
「みんな、本当に桜学舎を大切に思ってくれているんだね」
「そうです!」田村さんは目を輝かせて言った。「美月先輩たちがいなくなったら、僕たち、勉強も分からないままだし、何より楽しくありません」
健人も感動した様子で頷いた。
「でも、中学生のお小遣いをもらうわけには…」
「いいんです!僕たちだって、何かお手伝いできることがあったら言ってください」
田村さんの純粋な気持ちが、美月の心に響いた。しかし同時に、より一層責任の重さを感じた。中学生たちの期待に応えたいという気持ちと、現実的な困難の間で、美月の心は複雑に揺れ動いた。
田村さんが帰った後、美月と健人は再びベンチに座った。
「みんなの気持ちは嬉しいけど、根本的な解決にはならないよね」美月は呟いた。
「そうだね。でも、諦めるつもりはないよ」
健人の言葉に、美月は顔を上げた。
「他にも方法があるはずだ。バザーを開くとか、学校に正式に相談するとか」
「学校に?」
「教育支援活動として認めてもらえれば、場所の問題は解決するし、場合によっては予算も出るかもしれない」
確かに、それは一つの方法だった。しかし、学校という組織を動かすのは、個人で活動するよりもずっと複雑で時間もかかるだろう。
その時、夕日が桜の木を照らし、長い影を地面に落とした。美月はその影を見つめながら、千鶴や春香もきっと、同じような困難に直面したことがあったのだろうと思った。明治時代なら、今以上に女性が教育に携わることは困難だったはずだ。
「千鶴さんたちは、こういう時、どうしていたんだろう」
「きっと、諦めずに方法を探していたんじゃないかな」健人が答えた。
美月は深呼吸をした。確かに、ここで諦めるわけにはいかない。中学生たちの期待に応えたいし、何より、千鶴や春香との約束を果たしたい。
「そうですね。もう少し、頑張ってみます」
しかし、心の奥では不安が渦巻いていた。理想と現実のギャップは思っていたよりもずっと大きく、それを埋めるための道筋はまだ見えていない。
翌日、美月は一人で図書館にいた。資金調達の方法について調べていたが、どれも高校生には荷が重いものばかりだった。
そんな時、図書館の司書の先生が声をかけてきた。
「田中さん、最近よく来てるけど、何か困ったことでも?」
美月は迷ったが、思い切って桜学舎の現状を説明した。先生は真剣に聞いてくれて、最後に言った。
「いい活動ね。でも、続けていくためには、もっと多くの人に知ってもらう必要があるかもしれないわ」
「多くの人に?」
「そう。地域の人たち、保護者の方々、そして学校も含めて。応援してくれる人が増えれば、きっと道は開けるはず」
司書の先生の言葉が、美月の心に新たな希望の灯をともした。しかし同時に、それは今まで以上に大きな挑戦を意味していた。
夕方、美月は再び桜の木の下に立っていた。明日からどう行動すべきか、まだ答えは見つからない。それでも、諦めるわけにはいかなかった。