放課後の職員室は、一日の授業を終えた先生方の安堵の空気に包まれていた。美月は健人と並んで、担任の田村先生の机の前に立っている。手には、昨夜遅くまでかけて作成した企画書を握りしめていた。
「学習支援ボランティア……ですか」
田村先生は眼鏡の奥の優しい目で企画書に目を通しながら、穏やかに呟いた。ページをめくる音が、緊張した空気の中で妙に大きく響く。
「はい。月に一度、地域の小中学生を対象に、私たちが勉強を教えるんです」
美月の声は少し上ずっていた。千鶴と春香の夢を現代で実現したいという想いが、胸の奥で熱く燃えている。
「場所は?」
「校庭の桜の木の近くに机を並べて……天気が悪い時は、空き教室をお借りできればと思うのですが」
健人が補足する。彼の落ち着いた声が、美月の心を少し軽くしてくれた。
田村先生は企画書を最後まで読み終えると、ゆっくりと顔を上げた。
「素晴らしい取り組みだと思います。でも、学校としての許可が必要ですし、安全面での配慮も重要です。まずは校長先生にお話ししてみましょう」
翌日、校長室での面談は思っていたより好感触だった。しかし、実際に活動を始めるためには、より多くの生徒の協力が必要だった。
「最低でも十人は欲しいよね」
健人が図書館の片隅で呟く。二人の前には、これから呼びかける対象のリストが広げられていた。
「私たちだけじゃ、小中学生一人ひとりに丁寧に教えることができないものね」
美月は頷きながら、クラスメイトの顔を思い浮かべていた。勉強が得意で、人に教えることが好きそうな人は誰だろう。
最初に声をかけたのは、数学が得意で面倒見の良い山田さんだった。
「学習支援ボランティア? うーん、面白そうだけど……」
山田さんは困ったような表情を浮かべる。
「土曜日は塾のアルバイトがあるし、日曜日は家族との時間を大切にしたいから、ちょっと難しいかな」
次に声をかけた英語が得意な佐々木くんも、部活動の練習が忙しくて参加は難しいと答えた。
「受験勉強もあるしね。三年生になったら、もう少し余裕ができるかもしれないけど」
一人、また一人と断られるたびに、美月の胸に重いものが積み重なっていく。企画書を作成している時の高揚感は、どこかへ消えてしまった。
「やっぱり、私たちの考えが甘かったのかな」
昼休み、中庭のベンチで弁当を広げながら、美月は項垂れるように呟いた。
「そんなことないよ。みんなそれぞれ事情があるんだ」
健人は励ますように言ったが、彼の表情にも疲れの色が見える。郷土史研究部の部員たちにも声をかけたが、興味を示してくれたのは一人だけだった。
午後の授業中も、美月の心は重かった。千鶴と春香の想いを現代で実現したいという気持ちは変わらない。でも、現実は思っていたより厳しかった。
放課後、美月は一人で桜の木の下に向かった。まだ芽吹き前の枝が、灰色の空に向かって伸びている。
「千鶴さん、春香さん……」
心の中でそっと呼びかけた。今日は、あの不思議な感覚は訪れない。ただ冷たい風が頬を撫でていくだけだった。
「美月ちゃん」
振り返ると、同じクラスの林さんが立っていた。彼女は普段あまり目立たない存在だが、いつも静かに周囲を見守っているような印象がある。
「林さん……」
「さっき健人くんから聞いたの。学習支援ボランティアのこと」
林さんは美月の隣に腰を下ろした。
「私、小学生の弟がいるの。勉強を教えてあげる時、すごく嬉しそうな顔をするのよ。それを見てると、教えるって素敵なことだなって思うの」
美月の心に、小さな光が灯った。
「参加してくれるの?」
「ええ。私にできることがあるなら、ぜひ」
その時、図書委員の松本さんが近づいてきた。
「すみません、お話し中に。でも、私も聞いちゃって……」
松本さんは少し恥ずかしそうに微笑む。
「実は、私の住んでいる地域に、塾に通えない子どもたちがたくさんいるの。そういう子たちの力になれるなら、私も参加したいです」
美月の目が潤んだ。挫折感に支配されていた心に、温かいものが流れ込んでくる。
「ありがとう……本当にありがとう」
次の日、健人が興奮した様子で美月に駆け寄ってきた。
「美月、聞いてくれ! 昨日の放課後、図書館で勉強していたら、隣のテーブルの一年生が僕たちの話をしていたんだ」
「え?」
「『先輩たちが地域の子どもたちに勉強を教えるボランティアを始めるらしい』って。それで、その一年生たちが『私たちも参加したい』って言ってるんだ」
美月の心が躍った。想いは、確実に伝わり始めている。
昼休みになると、美月たちの周りに何人かの生徒が集まってきた。最初は遠慮がちに様子を窺っていた彼らも、美月の真剣な説明を聞くうちに、次第に目を輝かせ始めた。
「私、将来教師になりたいんです。この活動は、きっといい経験になりますよね」
二年生の田辺さんが手を挙げる。
「僕は地域貢献に興味があります。故郷のために何かできることを探していました」
同じクラスの中村くんも名乗りを上げた。
気がつくと、美月たちの周りには八人の生徒が集まっていた。みんな、それぞれ異なる動機を持ちながらも、子どもたちの力になりたいという共通の想いを抱いている。
「これで十分な人数が集まりそうね」
健人が嬉しそうに言う。美月も、胸の奥から温かいものが溢れてくるのを感じていた。
放課後、再び桜の木の下に立った美月は、昨日とは全く違う気持ちだった。挫折感は消え、希望に満ちた気持ちが心を支配している。
風が吹いて、桜の枝がゆらゆらと揺れた。その瞬間、美月の心に懐かしい声が響いた。
『美月さん、諦めないでいてくださったのですね』
千鶴の声だった。
『そうそう! 仲間がいると心強いでしょう? 私たちも、お互いがいたから頑張れたのよ』
春香の明るい声も聞こえる。
「はい。みんな、本当に優しくて……きっと素晴らしい『桜学舎』になります」
美月は小さくそう呟いた。
その時、健人が駆け寄ってきた。
「美月、大変だ! 校長先生から連絡があって、来週教育委員会の人が話を聞きに来るって」
美月の心が再び躍った。いよいよ、夢の実現に向けて本格的に動き出すのだ。
桜の枝の向こうに、夕日が美しく輝いていた。まるで、明治の時代から現代へと受け継がれた想いを祝福しているかのように。