夕方の陽だまりが縁側を暖める古い民家で、私たちは膝を揃えて座っていた。健人の祖父の紹介で訪ねたのは、この地域で生まれ育った九十三歳の高田さんという方だった。背筋がまっすぐに伸びた品のある老人で、私たちを温かな笑顔で迎えてくれた。
「明治の女学校のことですか」
高田さんは湯呑みを手に取りながら、遠くを見つめるような目をした。
「私の母がその学校に通っておりましてね。よく話を聞かされたものです」
私の心臓が早鐘を打った。実際にその時代を知る人の証言が聞けるなんて、夢にも思わなかった。健人も身を乗り出している。
「お母様は、どのような話をされていましたか」
「そうですねえ」
高田さんは記憶を辿るように、ゆっくりと口を開いた。
「母は明治四十二年に入学したと言っておりました。その頃の女学校は今とは全く違って、本当に限られた家の娘しか通えませんでした。母の家も呉服商をしておりましたから、まだ恵まれていた方でしょう」
私は写真を取り出した。千鶴と春香が写っているあの貴重な一枚だった。
「もしかしたら、この方々をご存知ではありませんか」
高田さんは老眼鏡をかけ直し、写真をじっと見つめた。しばらく沈黙が続く。私は息を詰めて待った。
「ああ、この方は……」
高田さんの指が千鶴を指した。
「母がよく話していた花岡さんではありませんか。とても優秀な方だったと」
私の胸が熱くなった。やはり千鶴は実在していた。しかも、同級生の記憶に残るほど印象深い人物だったのだ。
「どのような方だったと聞いていらっしゃいますか」
「母の話では、とても勉強ができて、将来は教師になりたいと言っていたそうです。でも、その頃の女性が教師になるなんて、本当に大変なことでした」
高田さんの表情が少し曇った。
「母は花岡さんのことを尊敬していましたが、同時に心配もしていたようです。あまりに理想が高すぎて、現実の壁にぶつかってしまうのではないかと」
「その後、花岡さんがどうなったか、お聞きになったことはありますか」
健人が質問すると、高田さんは首を振った。
「それが、卒業後のことはよく分からないのです。母も戦後まで生きておりましたが、花岡さんとは音信不通になってしまったようで」
私の心に小さな失望が生まれたが、すぐに希望で打ち消された。少なくとも千鶴が確かに存在し、教師になる夢を持っていたことが証明されたのだ。
「この方は?」
今度は春香を指差した。
「ああ、宮本さんですね。こちらの方も覚えています。確か商家の娘さんで、とても活発な方だったと母が言っておりました」
高田さんは少し笑みを浮かべた。
「母は宮本さんの破天荒さに憧れていたようです。『男子に負けず劣らず意見を言う人だった』と、よく話していました」
「二人は仲が良かったのでしょうか」
「ええ、とても。母は『花岡さんと宮本さんは対照的だったけれど、お互いを理解し合う親友同士だった』と言っておりました」
私は千鶴と春香の笑顔を思い出した。確かに二人の間には深い絆があった。それが同時代の人々の目にも明らかだったのだ。
「その女学校で、特に印象に残っているお話はありますか」
高田さんは湯呑みを置き、しばらく考え込んだ。
「そうですね……母がよく話していたのは、桜の木のことでした」
私の背筋が凛とした。
「桜の木、ですか」
「ええ。校庭にある大きな桜の木の下で、生徒たちがよく将来の夢を語り合ったと。母も花岡さんも宮本さんも、その桜の木が大好きだったそうです」
あの桜の木だ。時空を超えて私と千鶴たちを結んでくれた、あの神秘的な桜の木。
「『桜の木が私たちの夢を見守ってくれている』と、花岡さんがよく言っていたそうです」
高田さんの言葉に、私は胸が詰まりそうになった。千鶴の想いが、時を越えて今も桜の木に宿っているのかもしれない。
「母は晩年まで、『花岡さんが無事に教師になれていればいいのだけれど』と気にかけておりました。それだけ印象深い人だったのでしょう」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「貴重なお話をありがとうございました。とても参考になりました」
「いえいえ、古い話で申し訳ありませんでした。でも、若い方がこうして昔のことに興味を持ってくださるのは、嬉しいことです」
高田さんも立ち上がり、私たちを玄関まで見送ってくれた。
「もし他に何か分かることがあったら、いつでも聞きに来てください。記憶が曖昧な部分も多いですが、母から聞いた話で良ければ」
私たちは何度もお礼を言って、高田さんの家を後にした。
夕暮れの道を歩きながら、健人が口を開いた。
「すごかったね。千鶴さんも春香さんも、本当にいたんだ」
「うん。そして、みんなに愛されていたことも分かった」
私の声は感動で震えていた。千鶴と春香は単なる幻ではなかった。確かにこの土地に生き、夢を抱き、多くの人の心に印象を残した実在の人物だったのだ。
「でも、その後のことは分からないままだね」
「そうね。でも、きっと他にも何か手がかりがあるはず」
私たちは学校へ向かった。もう一度、あの桜の木の下に立ちたかった。千鶴たちの存在が確認できた今、きっと何か新しい発見があるかもしれない。
校門をくぐり、校庭の奥へ足を向ける。桜の木はまだ蕾を固く閉ざしていたが、どこか生命力に満ちて見えた。
私は幹にそっと手を置いた。
「千鶴さん、春香さん。あなたたちのことを覚えている人がいました。あなたたちの夢も、友情も、確かにこの世界に残っています」
風が頬を撫でていく。桜の枝が静かに揺れた。
その時、健人が何かに気づいたように振り返った。
「美月、あそこを見て」
健人が指差す方向に目をやると、校舎の古い窓から温かな光が漏れていた。まるで明治時代の学び舎に灯った、希望の明かりのように。
私たちは顔を見合わせた。この調査はまだ始まったばかりだ。千鶴と春香の物語の続きが、きっとどこかで私たちを待っている。そんな確信が、心の奥深くで静かに芽生えていた。