図書館での調査から一週間が過ぎた。美月は毎日のように桜の木の下で静かに時を過ごしていた。千鶴と春香の声を待ちながら、明治時代の女子師範学校について調べた資料を読み返している。

 十月も中旬を過ぎ、桜の葉は赤みを帯びた茶色に変わり始めていた。風が吹くたびに数枚の葉が舞い散り、季節の移ろいを感じさせる。美月は木の根元に腰を下ろし、開いた本のページを眺めながら、いつものように心の声で呼びかけてみた。

「千鶴さん、春香さん、聞こえますか」

 けれど、いつもならすぐに返ってくる温かな声は、今日も聞こえない。美月の胸に小さな不安が宿り始めた。

 昨日から、桜の木に触れる手のひらに感じる温もりが、なんとなく薄れているような気がしていた。最初は気のせいかと思ったが、日を追うごとにその感覚は確かなものになっていく。まるで、時空を結んでいた見えない糸が、少しずつほころび始めているかのように。

「美月、今日も来てるのね」

 振り返ると、健人が図書室から借りてきたらしい古い本を何冊も抱えて歩いてきた。

「健人くん」

「調子はどう? 千鶴さんたちと話せた?」

 美月は首を振った。「もう一週間も声が聞こえないの。最初は偶然かと思ったけれど」

 健人は美月の隣に腰を下ろし、抱えていた本を地面に置いた。「何か変化があったのかな」

「分からない。でも、この木に触れる時の感覚が、前とは違っているような気がするの」

 美月は立ち上がり、桜の幹にそっと手を当てた。樹皮のざらりとした感触は変わらないが、以前感じていた不思議な温かさや、時空を超えた繋がりを示す微細な振動のようなものが、確実に弱くなっている。

「もしかしたら」健人が thoughtful な表情で言った。「時間的な制限があるのかもしれない」

「制限?」

「つまり、過去と現在を結ぶこの桜の力には、何らかの条件や期間が決まっているということ。永遠に続くものではないのかもしれない」

 その言葉が、美月の心に重い石のように落ちた。確かに、最初に千鶴と春香の声を聞いた時から、もう一か月以上が経っている。もし健人の推測が正しいなら、この不思議な繋がりは、いずれ完全に失われてしまうかもしれない。

「でも、まだ彼女たちに伝えたいことがたくさんあるの」美月の声に焦りが滲んだ。「千鶴さんの夢を、私が現代で実現したいって、ちゃんと約束したかった」

「美月」健人が優しく声をかける。「もう君は十分に彼女たちの想いを受け取っているじゃないか。そして、それを現実にするために動き始めている」

 美月は桜の木を見上げた。夕日に照らされた枝々の間から、オレンジ色の光が差し込んでいる。葉が風に揺れるたびに、光と影が細かく踊る様子が、まるで木が何かを伝えようとしているかのように見えた。

 その時だった。とても微かに、ほとんど聞き取れないくらい小さな声が、風に混じって聞こえた気がした。

「美月、さん」

 美月は息を殺してじっと耳を澄ました。健人も気づいたのか、身を乗り出している。

「千鶴さん?」美月が小さく呼びかけると、今度ははっきりと返事が返ってきた。しかし、その声は以前よりもずっと遠く、まるで深い霧の向こうから聞こえてくるかのようだった。

「美月さん、やっと、聞こえました」千鶴の声は途切れ途切れで、時おり雑音のように歪んで聞こえる。「長い間、お返事できずに」

「千鶴さん、大丈夫ですか。春香さんは」

「春香は、元気です。でも、私たちの声も、だんだん、届きにくく」

 声がさらに小さくなり、美月は必死に耳を傾けた。

「時間が、限られているようです。この桜を通じたご縁も、いずれは」

 千鶴の言葉は途中で途切れ、しばらく沈黙が続いた。美月は桜の幹により強く手を当て、心の中で呼びかけ続けた。

「千鶴さん、まだ話したいことがあるんです。あなたたちの教育への夢を、私が現代で実現したいって」

「ありがとう、ございます」今度は春香の声が聞こえた。こちらも千鶴と同じように、遠く不安定だった。「美月さんが、私たちのことを、こんなにも想ってくださって」

「でも、もっと詳しく教えてほしいことがあるんです。どんな学校を作りたかったのか、どんな教育を目指していたのか」

 美月の必死な呼びかけに対して、しばらく静寂が続いた。風が少し強くなり、桜の葉がさらさらと音を立てる。

「美月さん」千鶴の声が、ゆっくりと響いた。「詳しいお話は、また必ず。でも今日は、これが精一杯のようです」

「力が、弱くなっています」春香が続けた。「でも諦めないでください。きっと、また」

 声が途切れ、再び静寂が戻った。美月は桜の木に額を押し当て、必死に呼びかけたが、もう返事は聞こえなかった。

 健人が心配そうに美月の肩に手を置いた。「美月、大丈夫?」

「聞こえた? 千鶴さんたちの声」

「うん、かすかにだけど。でも、以前よりもずっと弱々しかった」

 美月は木から手を離し、ゆっくりと振り返った。夕日はさらに低くなり、空は深い茜色に染まっている。

「やっぱり時間制限があるのね」美月は小さくつぶやいた。「この繋がりも、いずれは完全に失われてしまう」

「それなら、残された時間を大切にしないと」健人が言った。「彼女たちとまた話せる機会があるかもしれない。その時までに、もっと具体的に何をしたいか考えておこう」

 美月は頷いたが、胸の奥に焦りと寂しさが広がっていた。千鶴と春香との繋がりは、美月にとってかけがえのないものになっていた。彼女たちの存在が、美月の日常に特別な意味と目的を与えてくれていたのだ。

 それが失われてしまうとしたら。

「でも」美月は自分に言い聞かせるように呟いた。「たとえ声が聞こえなくなっても、彼女たちの想いは消えない。この桜の木が、ずっと守り続けてきたものがある」

 美月は再び桜の木を見上げた。枝の間から見える空は、もう薄い紫色に変わり始めている。季節が移り変わるように、この不思議な繋がりにも変化の時が来ているのだ。

 その時、美月の心の中に、新しい決意が芽生えた。残された時間がどれほどあるか分からないが、千鶴と春香の夢を現実のものにするために、今すぐにでも行動を起こそう。彼女たちとの約束を果たすために。

桜散る学舎と時代を超えた約束

11

消えゆく声

桐谷 雫

2026-03-31

前の話
第11話 消えゆく声 - 桜散る学舎と時代を超えた約束 | 福神漬出版