修平の必死の表情を見つめながら、樹里は自分の手を握りしめた。痩せ細った指先は、まるで透けて見えそうなほど白く、血の気が失せている。一週間——自分にはほんの数日のように感じられた時間が、現実では一週間も過ぎていたなんて。
「樹里、お願いだから現実に戻ってくれ」
修平の声が震えていた。幼い頃から知っている彼が、こんなに取り乱している姿を見るのは初めてだった。樹里は胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。
「修平……ごめんね」
呟いた言葉は、かすれて小さかった。喉も渇ききっている。いつから水を飲んでいなかっただろう。いつから食事をしていなかっただろう。霊たちとの音楽に夢中になって、自分の身体のことなど忘れていた。
「謝らないでくれ」修平は樹里の手を握った。「ただ、帰ってきてくれ。君の両親がどれだけ心配しているか分からないのか」
エドワードと静香は、少し離れた場所で佇んでいた。修平には見えない彼らは、まるで自分たちの存在を恥じるように、影のように薄くなっているように見えた。
「私たちのせいで……」静香が小さく呟いた。「樹里さんを巻き込んでしまって」
「いいえ」樹里は首を振った。修平には聞こえない会話だったが、樹里の意志は固かった。「私が選んだことです」
修平が困惑した表情で樹里を見つめた。
「誰と話しているんだ?」
「修平」樹里は立ち上がった。足元がふらつき、修平が慌てて支えてくれた。「私には、やらなければならないことがあるの」
「樹里……」
「ここにいる霊たちを、救いたいの」
修平の顔が青ざめた。
「また霊の話か。樹里、君は疲れているんだ。幻覚を見ているだけなんだよ」
「幻覚じゃない」樹里の声には、今まで聞いたことのない強さがあった。「エドワードと静香は、本当にここにいる。そして、彼らは音楽への想いを遂げることができずに、この世界に縛られているの」
静香が樹里に近づいてきた。
「樹里さん、もうやめましょう。あなたが現実世界で生きることの方が大切です」
エドワードも同意するように頷いた。
「君の人生を犠牲にしてまで、我々が成仏する必要はない」
でも樹里は首を振った。彼らの音楽を聞いて、その美しさと切なさに触れて、もう後戻りはできなかった。
「いいえ、私は決めました」
樹里は修平を見つめた。
「一晩だけ時間をください。たった一晩で、すべてを終わらせます」
「何を終わらせるって?」
「霊たちが遺した楽曲を、すべて演奏します。彼らの想いを現世に伝えて、彼らを解放するの」
修平は樹里の肩を掴んだ。
「樹里、君は正気か?一晩で何曲演奏するつもりだ?」
「エドワードの未完成の協奏曲、静香さんの弦楽四重奏曲……それに、この建物に眠る他の霊たちの楽曲も含めて」
樹里は振り返って、練習室の奥を見つめた。そこには、エドワードと静香以外にも、ぼんやりとした人影がいくつも見えていた。戦前から戦後にかけて、この音楽大学で学び、志半ばでこの世を去った音楽家たちの魂だった。
「全部で……十五曲」
修平が息を呑んだ。
「十五曲?一晩で?そんなことをしたら、君の身体が持たない」
「持たせます」樹里の瞳には、決意の炎が宿っていた。「これが最後の挑戦です」
静香が心配そうに樹里を見つめた。
「樹里さん、それは無謀すぎます。一曲でも集中して演奏すれば、体力を相当消耗するのに」
「でも、他に方法はありません」樹里は振り返った。「私が倒れても構いません。でも、皆さんの音楽を完成させたい。それが私の使命だと思うんです」
エドワードが近づいてきた。
「君は……なぜそこまでするのだ?」
「私は子供の頃から、音楽が好きでした。でも、本当の音楽の素晴らしさを知ったのは、皆さんと出会ってからです」樹里の声は透明で、揺るぎない確信に満ちていた。「皆さんの音楽への愛、情熱、そして苦しみ……それらすべてが私に音楽の真実を教えてくれました」
修平は黙って樹里の言葉を聞いていた。彼には霊たちの姿は見えなくても、樹里の真剣さは伝わっていた。
「もし私がここで諦めて現実世界に戻ったら、きっと後悔します。皆さんをこのまま苦しませておくなんて、できません」
樹里は両手を胸の前で組んだ。
「だから、一晩だけ時間をください。明日の朝になったら、すべてが終わっているはずです」
静かな沈黙が練習室を支配した。修平は樹里の顔を見つめ続けていた。そこには、彼が知っている優しい幼馴染の顔があった。でも同時に、今まで見たことのない強い意志を持った女性の顔もあった。
「分かった」修平が静かに言った。「でも条件がある」
「条件?」
「俺もここに残る。君が演奏している間、俺が側にいる」
樹里が驚いた表情を見せた。
「でも、修平には霊が見えないし——」
「見えなくても構わない。君が一人でそんな無茶をするのを見ていられない」修平は苦笑いした。「それに、君が倒れたときに、現実世界に連れ戻すのは俺の役目だろう」
樹里の目に涙が浮かんだ。修平の優しさが、胸に深く響いた。
「ありがとう、修平」
「礼なんていらない。ただ、約束してくれ。無理だと思ったら、すぐに演奏を止めると」
樹里は頷いた。
エドワードと静香、そして他の霊たちが樹里を囲むように集まってきた。
「樹里さん」静香が言った。「本当に、ありがとうございます」
「我々のために、そこまでしてくれるとは……」エドワードの声にも、深い感謝が込められていた。
樹里は微笑んだ。
「皆さんの音楽を演奏できることが、私にとっても幸せなんです」
時計が深夜零時を指した。長い夜の始まりだった。
樹里はピアノの前に座り、指を鍵盤の上に置いた。最後の挑戦が、今、始まろうとしていた。