佐々木教授の警告から一週間が過ぎた。樹里は悩み抜いた末、ある決意を固めていた。霊たちとの関係を完全に断つことはできなかったが、せめて自分なりのルールを作ろう。昼間の練習を充実させ、夜の時間は最小限に留める。そして何より、現実の世界にしっかりと足を置いておくこと。
その夜、樹里は久しぶりに第三練習室を訪れた。扉を開けると、いつものようにエドワードがピアノの前に座っていた。しかし、彼の表情はどこか違っていた。いつもの威厳に満ちた冷たさではなく、どこか憂いを帯びた複雑な面持ちだった。
「遅い到着だな」エドワードの声は、いつもより低く沈んでいた。「一週間も姿を見せないとは」
「申し訳ありません」樹里は深く頭を下げた。「少し、考える時間が必要でした」
エドワードは振り返ると、樹里をじっと見つめた。その瞳には、これまで見たことのない感情が宿っていた。まるで人間らしい迷いや不安のような、生前の彼には決してなかったであろう温かみのある光が。
「君は疲れている」エドワードは静かに言った。「無理をしていることは分かる。この一ヶ月間、君がどれほど自分を犠牲にしてきたか、私には見えていた」
樹里は驚いて顔を上げた。エドワードがこのような言葉を口にするなど、想像もしていなかった。完璧主義で傲慢な彼が、人の心配をするなど。
「でも、大丈夫です」樹里は無理に笑顔を作った。「音楽のためなら」
「音楽のため?」エドワードは苦笑いを浮かべた。「それは私がかつて口にした言葉だ。音楽のためなら何を犠牲にしても構わない。健康も、人間関係も、時には人生さえも」
彼は立ち上がり、窓際へと歩いていく。月光が彼の半透明の姿をぼんやりと照らし出していた。
「私は生前、多くのものを失った」エドワードは振り返ることなく語り始めた。「家族、友人、恋人。すべてを音楽に捧げることが正しいと信じていた。完璧な演奏こそが全てであり、それ以外は意味を持たないと」
樹里は息を呑んだ。エドワードが自分の過去について語ることなど、一度もなかった。
「だが、死を迎えた時に気づいたのだ」エドワードの声に、深い後悔が滲んだ。「音楽は確かに美しかった。だが、それだけでは魂は満たされない。人と人との繋がり、温かさ、愛情。そうした人間らしい感情があってこそ、音楽は真の生命を宿すのだということを」
エドワードはゆっくりと樹里の方を向いた。その表情は、もはやかつての冷酷な天才ピアニストではなく、深い悲しみと優しさを湛えた一人の人間のものだった。
「君と出会い、君の純粋な心に触れて、私は初めて理解した。音楽への愛とは、決して孤独なものではないのだということを。君は私に、失われた人間性を思い出させてくれた」
樹里の目に涙が滲んだ。エドワードのこの変化は、決して一朝一夕に起こったものではないだろう。彼女との日々の交流の中で、少しずつ、少しずつ育まれてきたものなのだ。
「エドワード様」樹里は震え声で呟いた。
「もう『様』は必要ない」エドワードは優しく微笑んだ。「私たちは対等な音楽仲間だ。いや、君の方がずっと豊かな心を持っている。私こそが君から学ぶべき立場なのだ」
エドワードはピアノの前に戻ると、鍵盤に指を置いた。しかし今度奏でられたのは、いつもの完璧で冷徹な演奏ではなかった。どこか温かみがあり、人間らしい情感に満ちた音色だった。
「これが、君に教えられた演奏だ」エドワードは弾きながら語った。「技術的には以前より劣るかもしれない。だが、心がある。魂がある。君が私にくれたものが、ここにはある」
樹里は涙を流しながら聴いていた。これほど美しい音楽を聴いたことがあったろうか。完璧ではないかもしれないが、心を震わせる何かがそこにはあった。
曲が終わると、エドワードは樹里を見つめた。
「だから、頼む」彼の声は切実だった。「君は私たちの指導で自分を見失ってはいけない。君には現実の世界があり、愛する人たちがいる。それを大切にしながら音楽と向き合ってほしい。私のような過ちを繰り返してはいけない」
樹里は頷いた。エドワードの言葉は、佐々木教授の警告よりもずっと心に響いた。それは、同じ音楽家としての、心からの願いだったから。
「ありがとうございます」樹里は涙を拭いながら言った。「エドワードさんのお気持ち、しっかりと受け取りました」
その時、練習室に静香の姿が現れた。彼女もまた、いつもの凛とした表情ではなく、どこか穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お話は聞かせていただきました」静香は優雅に一礼した。「エドワードさんの仰る通りです。私たちは樹里さんに多くを求めすぎていました」
「静香さん」樹里は驚いた。
「私たちの未練は、本来なら私たち自身が解決すべき問題だったのです」静香は続けた。「樹里さんにその重荷を背負わせるべきではありませんでした」
エドワードと静香、二人の亡霊の表情には、これまで見たことのない安らぎがあった。まるで長い間抱えていた重荷を、ようやく下ろすことができたかのように。
「でも、私は」樹里は言いかけたが、エドワードが手を上げて遮った。
「君の優しさは分かっている。だが、今は自分自身を大切にしてほしい。私たちとの音楽は続けてもいい。ただし、君のペースで、君の心を犠牲にしない範囲で」
樹里は深く頷いた。そして、久しぶりに心から安堵のため息をついた。重圧から解放された安心感と同時に、エドワードたちとの絆がより深くなったような温かさを感じていた。
その夜、練習は短時間で終わった。しかし、その短い時間の中で交わされた音楽は、これまでで最も心に響くものだった。技術的な完璧さではなく、心と心の交流があったから。
帰り際、エドワードが樹里を呼び止めた。
「樹里」初めて名前で呼ばれた。「明日は修平君と過ごしなさい。君には、現実の世界での幸せが必要だ」
樹里は笑顔で頷いた。エドワードの変化は、彼女自身の心にも新たな光をもたらしていた。音楽への愛と、人間としての幸せ。その両方を大切にしていけばいいのだと、今なら素直に思えた。
しかし、廊下を歩きながら、樹里はふと気づいた。エドワードたちの心境に変化が生まれたということは、彼らの魂に何らかの動きが起こっているということではないだろうか。
それが何を意味するのか、樹里にはまだ分からなかった。