翌朝、樹里が意識を取り戻したのは保健室のベッドの上だった。白いカーテンに囲まれた薄暗い空間で、かすかに消毒液の匂いが鼻をつく。頭がぼんやりとして、昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか判然としない。
「気がついたか」
聞き慣れた声に振り返ると、修平が椅子に座って心配そうに見つめていた。左腕には包帯が巻かれているが、表情は昨夜よりもずっとしっかりしている。
「修平? なぜここに……」
「君が練習室で倒れているのを見つけたんだ。もう少し遅かったら大変なことになっていた」
樹里は身を起こそうとしたが、めまいがして再びベッドに沈み込んだ。修平が慌てて支えてくれる。
「無理をするな。医師の話では、極度の疲労と栄養失調だそうだ。いったい何日まともに食事を取っていない?」
問われても、樹里には答えられなかった。この数週間、霊たちとの練習に没頭するあまり、食事も睡眠も二の次になっていた。体が軽くなっていくのを感じていたが、それは魂が浄化されているからだと思い込んでいたのだ。
「樹里」
修平の声が普段よりも深刻な響きを帯びている。
「君に話がある。一人じゃないから安心してくれ」
カーテンの向こうから足音が聞こえ、数人の同級生たちが姿を現した。ピアノ科の美咲、声楽科の拓海、そしてヴァイオリン科の麻衣。みな樹里の友人たちだった。
「樹里ちゃん、大丈夫? みんな心配してたのよ」
美咲が優しく声をかけてくれるが、樹里の心は曇った。友人たちの温かい気持ちは理解できるが、今の自分には重荷に感じられる。
「私たち、気づいてたの」拓海が口を開いた。「最近の樹里ちゃん、何かおかしかった。授業中もぼんやりしてるし、食堂でも一人でいることが多くなって……」
「それに」麻衣が続ける。「深夜に練習室にいるのを何度も見かけた人がいるって聞いたわ。毎晩のように」
樹里は身構えた。友人たちの視線が自分を取り囲んでいるように感じられる。
「修平から聞いたの。君が何か……普通じゃないものと関わってるって」美咲の声が震えている。「本当なの?」
沈黙が保健室を包んだ。樹里は答えに窮した。どう説明すれば理解してもらえるだろうか。エドワードや静香さんとの出会い、音楽を通じた魂の交流、それらすべてが自分にとってかけがえのない体験なのだということを。
「樹里」修平が身を乗り出した。「君を助けたいんだ。僕たちみんなが」
「助ける?」樹里の声が上ずった。「私は別に困ってなんかいない」
「でも倒れたじゃない」麻衣が心配そうに言う。「このままじゃ体を壊しちゃう」
「そんなことより」樹里は急に立ち上がろうとした。「練習しなければ。エドワードが待ってる」
友人たちが顔を見合わせた。修平が樹里の肩を押さえて座らせる。
「樹里、聞いてくれ。君が出会っているのは本当に霊なんだろう。でも、それが君のためになっているとは思えない」
「何を言ってるの?」樹里の声が険しくなった。「エドワードは私に本当の音楽を教えてくれている。静香さんも、私の才能を認めてくれる。あの人たちがいなければ、私はただの凡庸な学生のままよ」
「それは違う」美咲が強く言った。「樹里ちゃんは元々才能があったのよ。霊なんかに頼らなくても」
「分からないの!」樹里が声を荒げた。「あなたたちには分からない。音楽への真の愛を知らない人たちには」
友人たちが息を呑んだ。樹里の言葉が彼らを深く傷つけたことは明らかだった。
「樹里……」修平の声が悲しげに響く。「君はもう君じゃなくなってしまった」
「私は私よ」樹里は頑なに首を振った。「むしろ今が一番本当の私なの」
拓海が前に出た。
「樹里ちゃん、お願いだから私たちの話を聞いて。君が夜中に練習室で話してるのを聞いた人がいるの。でも、そこには君一人しかいなかった」
「嘘よ」
「嘘じゃない。君は一人で空気に向かって話してたって」
樹里の頬から血の気が引いた。
「それに」麻衣が続けた。「君が最近弾いている曲、すごく不協和音が多くて、聞いてると胸が苦しくなるって先生たちも言ってるの」
「そんなはずない」樹里は混乱した。「エドワードの指導は完璧なはず。私の演奏は以前より格段に向上している」
修平が悲しそうに首を振った。
「樹里、君が聞いている音楽と、僕たちが聞いている音楽は違うんだ」
その言葉が樹里の心臓を貫いた。違う? そんなことがあるだろうか。
「佐々木教授に相談してみよう」美咲が提案した。「建物の歴史に詳しいから、何か分かるかもしれない」
「教授には話さないで」樹里が慌てて言った。「お願い、誰にも言わないで」
「どうして?」拓海が問う。
樹里は答えられなかった。なぜかは分からないが、大人に知られてはいけないという直感があった。エドワードと静香さんを失いたくないという恐怖が、理性を上回っていた。
「とにかく」修平が立ち上がった。「今夜からは練習室に一人で行くのはやめてくれ。僕たちが付き添う」
「嫌よ」樹里は即座に拒絶した。「あなたたちがいると、エドワードたちが現れない」
「それでいいんだ」修平の声が固い。「君を正常な状態に戻すまで、僕たちは君を一人にしない」
樹里の心に絶望が広がった。友人たちの善意は理解できるが、それは自分にとって最も大切なものを奪おうとする行為に他ならない。
「分からないのね」樹里がつぶやいた。「私がどれほど彼らを必要としているか」
夕方、友人たちに付き添われて寮に戻った樹里は、一人になった瞬間に深い孤独感に襲われた。エドワードの声が聞こえない。静香さんの気配も感じられない。
窓の外に夕闇が迫っている。いつもなら練習室に向かう時間だった。
樹里は友人たちの制止を振り切ってでも、霊たちのもとに向かいたい衝動に駆られていた。もはや彼らなしでは、自分が何者なのかも分からなくなっていた。