エドワードの魂が練習室に現れた瞬間、空気が重く変わった。しかし樹里が期待していた穏やかな対話の時間は、突如響き渡った不協和音によって粉々に砕かれた。
「樹里……樹里……」
甲高く震える声が、天井の隅から聞こえてきた。樹里の背筋に冷たいものが走る。その声は、あの少年霊のものだった。
練習室の温度が急激に下がり、樹里の息が白く見えるようになった。エドワードの表情が険しく歪む。
「また、あの小僧か」
エドワードの声には明らかな苛立ちが込められていた。彼の周囲の空気が微かに揺らぎ、霊的な力が高まっているのが分かる。
「僕の……僕だけの樹里……誰にも渡さない……」
少年霊の声が次第に大きくなり、練習室の電灯がちらちらと点滅し始めた。樹里は本能的に身を縮めた。以前感じた少年霊の執着は、今やより強固で危険なものに変質している。
「樹里、下がっていろ」
エドワードが前に出ようとした時、練習室の窓ガラスがびりびりと震え始めた。少年霊の姿が、薄っすらと室内に現れる。
現れた少年は、樹里が最初に見た時よりもはるかに実体に近い姿をしていた。十二、三歳ほどの華奢な体躯に、古いヴァイオリンを抱えている。しかし、その瞳には異常な執着の炎が宿っていた。
「お姉さん、僕と一緒に演奏しよう。ずっと、ずっと……永遠に」
少年がヴァイオリンに弓をあてると、耳を劈くような音が響いた。それは音楽とは呼べない、魂の叫びにも似た不協和音だった。
「やめなさい!」
静香の声が響き、彼女の姿も練習室に現れた。しかし少年霊は聞く耳を持たない。
「邪魔しないで! お姉さんは僕のものなんだ! 僕だけの!」
少年の演奏がさらに激しくなると、練習室のピアノの弦が次々と切れ始めた。金属的な破裂音が連続して響く中、樹里は恐怖で身動きが取れずにいた。
「小僧、いい加減にしろ」
エドワードが一歩前に出ると、その場の霊的な圧力が一気に高まった。二人の霊の力がぶつかり合い、練習室の空気が嵐のように渦巻いた。
「あなたこそ邪魔よ! 樹里ちゃんを苦しめて!」
静香もまた、二人の間に割って入ろうとする。しかし、三つの霊的な力が交錯した瞬間、練習室は完全に霊的な戦場と化した。
窓ガラスが割れ、譜面台が倒れ、椅子が宙に浮いて激しく回転する。樹里は壁に背を押し付け、恐怖に震えていた。これまで体験したことのない霊的な暴走に、完全にパニック状態に陥っていた。
「やめて……やめて!」
樹里の叫び声は、霊たちの争いの音にかき消される。エドワードと少年霊の対立は激化の一途を辿り、静香の制止も効果がない。
突然、練習室のドアが勢いよく開いた。
「樹里!」
修平の声が聞こえたが、彼には霊たちの姿は見えない。修平には、一人でパニックになっている樹里の姿しか映らないのだ。
「修平君、来ちゃダメ! 危険よ!」
樹里は必死に叫んだが、修平は構わず室内に入ってきた。その瞬間、少年霊の怒りがさらに爆発した。
「また邪魔者が! お姉さんに近づくな!」
少年霊のヴァイオリンから放たれた霊的な力が、修平を直撃した。修平は見えない力に吹き飛ばされ、廊下の壁に激しく叩きつけられた。
「修平君!」
樹里は修平に駆け寄ろうとしたが、少年霊が行く手を阻んだ。
「お姉さんはここから出ちゃダメ。僕と一緒にいるの。永遠に……」
少年の瞳は完全に正気を失っていた。執着は既に愛情を超え、狂気の領域に達している。
「君は間違っている」
エドワードが低い声で言った。「愛とは相手を束縛することではない。それは音楽も同じだ」
「うるさい! あなたなんかに何が分かる!」
少年霊がヴァイオリンを振り上げると、それは武器のように鋭い霊的な刃となった。エドワードも応戦の構えを取る。
静香は樹里を守るように前に立ちはだかったが、少年霊の狂気じみた力の前では心許ない。
「樹里ちゃん、早くここから逃げて!」
しかし、樹里の足は恐怖で硬直していた。練習室は完全に霊的な嵐に支配され、現実の物理法則も歪んでいる。天井から楽譜が雪のように舞い散り、ピアノの鍵盤が勝手に押されて不協和音を奏でている。
廊下から修平のうめき声が聞こえる中、樹里は絶望的な状況に追い込まれていた。これまで音楽を通じて心を通わせてきた霊たちが、今は恐怖の対象となっている。
「僕は……僕は樹里お姉さんを愛してるんだ……」
少年霊の声に、深い悲しみが滲んでいた。しかし、その愛は既に歪んでしまい、破壊的な執着となって全てを巻き込んでいく。
エドワードと少年霊の対立がさらに激化し、二人の霊的な力がぶつかり合う度に、練習室の破壊は進んでいった。樹里は、この状況をどう収拾すればよいか分からず、ただ恐怖に震えることしかできなかった。
そんな中、廊下の向こうから足音が近づいてくる。複数の人間の気配だった。きっと異常音に気づいた誰かが駆けつけてくるのだろう。しかし、一般の人間がこの場に現れれば、さらなる混乱を招く可能性もある。
霊たちの争いは収まる気配がなく、樹里は完全に状況を見失っていた。音楽への愛から始まったはずの交流が、なぜこのような破壊的な結末に向かってしまうのか。
少年霊の狂気じみた執着を前に、樹里は自分の無力さを痛感するばかりだった。