霧のように立ちこめていた混乱が、ようやく薄れ始めた。樹里は修平の温かい手に支えられながら、ゆっくりと意識を取り戻していく。練習室の蛍光灯が、まるで遠い星のように瞬いて見えた。
「樹里、大丈夫か?」
修平の声が耳に届く。樹里は小さく頷いた。体の奥底に残る重苦しい感覚が、まだ完全には消えていない。エドワード・グレイの魂が自分の中に宿っていた時の記憶が、断片的に蘇ってくる。
「ありがとう、静香さん」
樹里は振り返り、薄っすらと佇んでいる雅楽院静香に声をかけた。戦前の女流作曲家の霊は、和服の袖を静かに揺らしながら微笑んでいる。
「よかった。あなたが無事で」静香の声は、まるで風鈴のように涼やかだった。「でも、これで終わりではありませんの。エドワードは一時的に引き下がっただけ。彼の執念は、まだ消えてはいません」
修平が困惑した表情を浮かべる。
「執念って、具体的には何なんだ?」
「未完の楽曲への想い」樹里が答えた。エドワードに憑りつかれていた間の記憶が、まだ頭の中で渦を巻いている。「彼は自分の最高傑作を完成させることができずに死んだ。その無念が、この世に魂を繋ぎ止めている」
その時、練習室の扉がゆっくりと開いた。佐々木教授が姿を現す。白髪の老人は、まるで最初から全てを知っていたかのように、落ち着いた様子で室内を見回した。
「やはり、ここにいましたか」
教授は椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。
「佐々木先生、あなたは最初から霊の存在を?」修平が尋ねる。
「ええ、知っていました」教授は重々しく頷いた。「この校舎には、音楽に人生を捧げた多くの魂が眠っています。エドワード・グレイ、雅楽院静香、そして他にも何人も。彼らは皆、完全燃焼できずにこの世を去った音楽家たちなのです」
静香が教授の方を向く。
「先生は、私たちを見ることがおできになるのですね」
「霊感があるわけではありません」教授は首を振った。「ただ、長年この校舎にいると、自然と感じ取れるようになるものです。夜中に響く足音、誰もいない練習室から聞こえる演奏、時折現れる古い楽譜。全ては、あなたたちの存在を示すものでした」
樹里は床に座り直し、教授の話に耳を傾けた。
「でも、なぜ霊たちは成仏できないのですか? 音楽への愛があれば、それだけで満足できそうなものですが」
「それが霊界の法則というものです」教授の声に、深い知識の重みが込められていた。「彼らのような芸術家の霊が成仏するには、生前に果たせなかった執念を完全に満たす必要があります。中途半端な満足では、魂は解放されないのです」
修平が身を乗り出す。
「執念を完全に満たすって、具体的にはどういうことですか?」
「エドワードの場合」教授は慎重に言葉を選んだ。「彼の未完の楽曲を、彼自身が納得できる形で完成させることです。ただし、それは単に楽譜を埋めればよいというものではありません。彼の魂が求める音楽的完成度に到達しなければならない」
樹里の胸に、重い責任感が宿る。
「私が、それをしなければならないのですね」
「樹里」修平が心配そうに声をかけた。「君一人でそんな重荷を背負う必要はない」
「でも、私にしかできないことなの」樹里は修平の手を握った。「エドワードの音楽を理解できるのは、霊感のある私だけ。それに、彼の苦しみを感じることができるのも」
静香が近づいてくる。
「樹里さん、お気持ちはよくわかります。でも、教授がおっしゃった『完全に満たす』ということの難しさを、あなたはまだ理解していらっしゃらない」
教授が頷く。
「その通りです。エドワード・グレイは19世紀の天才ピアニストで、極度の完璧主義者でした。彼が納得する音楽的完成度は、並大抵のものではありません。下手をすれば、樹里さん自身が音楽の重圧に押し潰されてしまう危険性もあります」
練習室に重い沈黙が落ちる。蛍光灯の微かな音だけが、空間を満たしていた。
樹里は立ち上がり、ピアノの前に歩いて行く。黒い鍵盤が、月光に照らされて鈍く光っている。
「でも、やらなければならないんです」彼女の声に、強い決意が宿っていた。「エドワードの魂を救うためだけではなく、私自身のためにも。音楽家として、本当の意味で成長するために」
修平が立ち上がる。
「なら、俺も協力する」
「修平くん?」
「一人で背負うなって言ったろう。俺にはエドワードの音楽は理解できないかもしれないが、君を支えることはできる」
静香が微笑んだ。
「素晴らしい絆ですわね。でも、樹里さん、一つだけ気をつけていただきたいことがあります」
樹里が振り返る。
「何でしょうか?」
「霊界の法則には、もう一つ重要な側面があります」教授が口を挟んだ。「執念を満たす過程で、霊に取り憑かれた者は、その霊と魂のレベルで同化していきます。つまり、エドワードの楽曲を完成させる過程で、樹里さん自身がエドワードの人格に飲み込まれてしまう可能性があるのです」
修平の顔が青ざめた。
「それって、樹里が樹里でなくなるってことですか?」
「最悪の場合は、そうなります」教授は重々しく頷いた。「霊と生者の境界が曖昧になり、最終的には樹里さんの魂がエドワードと完全に融合してしまう。そうなれば、現在の桜井樹里という人格は消失してしまうでしょう」
樹里の手が、わずかに震えた。しかし、彼女の瞳には迷いがなかった。
「それでも、やります」
「樹里!」修平が声を荒らげた。
「大丈夫」樹里は振り返り、修平に微笑みかけた。「私には、あなたがいるから。そして静香さんもいる。きっと、私を見守っていてくれる」
静香が近づいてくる。
「樹里さん、私にできることがあれば、何でもお申し付けください。同じ音楽家として、そして女性として、あなたを支えます」
教授が立ち上がった。
「わかりました。では、明日の夜から準備を始めましょう。まずは、エドワードの未完の楽譜を詳しく調べる必要があります。幸い、この大学の資料室には、彼の遺した楽譜の写しが保管されています」
樹里が頷く。運命の歯車が、静かに回り始めていた。