朝の陽光が練習室の窓から差し込んできた時、樹里はようやく深い眠りから目を覚ました。体が鉛のように重く、まるで海の底から浮上するような感覚だった。
「あれ......私、いつの間に眠って......」
ピアノの前の椅子に座ったまま、前のめりになって眠っていた自分の姿勢に気づく。首筋に鈍い痛みが走り、両手は昨夜の激しい演奏の記憶を刻むように強張っていた。
時計を見ると既に午前九時を過ぎている。一限目の和声学の授業には完全に遅刻していた。慌てて立ち上がろうとした瞬間、世界がぐらりと傾いた。
「うっ......」
壁に手をついて何とか持ちこたえる。めまいと吐き気が同時に襲いかかってきた。昨夜のエドワードとの練習――第一楽章「苦悩」を完成させた時の充実感は確かに残っているのに、今の自分は抜け殻のように空虚だった。
鏡に映った自分の顔を見て、樹里は息を呑んだ。頬がこけ、目の下には深いクマができている。まるで一晩で数ヶ月分老け込んだような顔をしていた。
「これは......まずい」
何とか荷物をまとめ、ふらつく足取りで練習室を出る。廊下を歩く学生たちの活気ある声が、遠くから聞こえる雑音のように感じられた。
教室に向かう途中で修平とすれ違った。彼は樹里を見るなり、明らかに動揺した表情を見せた。
「樹里、大丈夫か? 顔色がすごく悪いけど......」
「ああ、修平君。昨夜、ちょっと夜更かしして......」
そう言いかけて、樹里は自分の声がかすれていることに気づいた。喉がひどく乾いていて、まるで砂漠を歩いてきたかのような感覚だった。
「夜更かしって程度じゃないだろ、これは。熱でもあるんじゃないか?」
修平が心配そうに樹里の額に手を当てようとした時、樹里の視界がまた揺らいだ。今度はより激しく、まるで船酔いのような感覚だった。
「うぁ......」
膝が崩れそうになるのを、修平が慌てて支えた。
「おい、しっかりしろ。保健室に行こう」
「大丈夫、大丈夫よ。ただの寝不足だから......」
樹里は必死に笑顔を作ろうとしたが、その表情は修平をさらに心配させるだけだった。
保健室のベッドに横になっても、樹里の体調は改善しなかった。養護教諭の先生に体温を測ってもらうと、微熱があった。しかし、それだけでは説明のつかない倦怠感が全身を支配していた。
「最近、何か変わったことはありましたか? 食事は取れていますか?」
「はい......普通に......」
そう答えながら、樹里は昨夜の記憶を辿った。エドワードとの練習中、確かに異常な集中状態に入っていた。百年の想いを自分の指先に込めて、完璧な演奏を実現した時の充実感。しかし、あの時確かに何かを差し出していた感覚があった。
「少し休んで様子を見ましょう。お昼頃まで寝ていなさい」
養護教諭の優しい声を聞きながら、樹里は再び眠りの世界へと落ちていった。
夢の中で、樹里はあの練習室にいた。しかし、そこは昨夜とは違って薄暗く、冷たい空気に満ちていた。ピアノの前に座ると、鍵盤が重く、まるで鉛でできているかのようだった。
「樹里......」
エドワードの声が聞こえたが、姿は見えない。その声は昨夜の満足げな調子とは違って、どこか申し訳なさそうだった。
「君が私の想いを受け止めてくれたことに感謝している。しかし......」
「何? 何が起こっているの?」
樹里は夢の中で必死に声を上げたが、エドワードの返事は聞こえなかった。ただ、ピアノの音だけが響き続けた。第一楽章「苦悩」のメロディーが、今度は樹里自身の苦悩として奏でられていた。
目を覚ました時、既に午後の授業が始まっていた。体調は朝よりもさらに悪化していた。立ち上がることすら困難で、歩くと足元がふわふわと頼りない感覚だった。
修平が心配して保健室まで迎えに来てくれた。
「先生が言うには、しばらく休んだ方がいいって。今日は家に帰って、ゆっくり休めよ」
「でも......今日は佐々木教授の特別講義があるの」
「そんな状態で講義を受けても意味ないだろ。君の体が一番大切だよ」
修平の説得に負けて、樹里はその日の授業を全て休むことにした。しかし、アパートに帰ってベッドに横になっても、不思議と眠ることができなかった。
窓の外を見ると、既に夕暮れが近づいている。普通なら、そろそろ夕食の支度をして、今夜の練習の準備を始める時間だった。しかし、今の樹里には楽譜を開く気力さえなかった。
鏡を見ると、朝よりもさらに顔がやつれているのが分かった。頬骨が目立ち、目は落ち窪んでいる。まるで長期間の病気を患っているかのような外見だった。
「一体、私に何が起こっているの......」
その時、アパートの窓から大学の校舎が見えた。夕暮れの中でシルエットとなった重厚な建物は、いつもより神秘的で、そして何か不吉な予感を抱かせた。
樹里は昨夜のことを思い出した。エドワードとの完璧な演奏。あの時確かに感じた、何かが自分から流れ出ていく感覚。まるで自分の生命力そのものを音楽に変換しているかのような......
「まさか......」
恐ろしい推測が頭をよぎった。もしかすると、亡霊たちとの交流は、単なる精神的なやり取りではないのかもしれない。彼らの想いを受け止め、完璧な演奏を実現するために、樹里は自分の何かを代償として払っているのではないだろうか。
その推測が正しいとすれば、これから待っている第二楽章「愛」と第三楽章「昇華」は、さらに大きな代償を要求するだろう。
夜が深まるにつれて、大学の方角から微かに音楽が聞こえてきた。今夜も練習室では、誰かが――生者か死者かは分からないが――音楽への想いを込めて演奏している。
樹里は窓辺に立ち、その音に耳を澄ました。体は限界に近い疲労を感じているのに、心の奥で何かが疼いていた。音楽への愛。それは今の樹里を支配している最も強い感情だった。
たとえこの身が朽ち果てても、エドワードたちの想いに応えたい。そして、自分自身の音楽への愛を、完璧な形で表現したい。
その想いが、樹里の弱った体に再び力を与え始めていた。危険だと理性では分かっているのに、魂の奥底から湧き上がる衝動は抑えられなかった。
明日の夜、樹里は再び練習室に向かうだろう。たとえそれがさらなる代償を要求することになったとしても。