深夜の練習室に、いつもとは異なる重苦しい空気が漂っていた。樹里はピアノの前に座りながら、背後から感じる視線の強さに息苦しさを覚えていた。

 修平が付き添ってくれるようになってから三日が過ぎていたが、今夜は珍しく一人だった。彼は翌日の試験勉強があると言って、十一時頃に帰っていった。その後から、練習室の雰囲気が明らかに変化していたのだ。

「樹里さん」

 振り返ると、あの少年霊が立っていた。十二、三歳ほどに見える彼は、いつもの人懐っこい笑顔ではなく、どこか熱に浮かされたような表情を浮かべていた。

「こんな時間まで練習してくださって、ありがとうございます。僕のために、ですよね?」

 樹里は困惑した。確かに彼のヴァイオリン協奏曲も練習していたが、それは他の霊たちの楽曲と同じく、彼らの想いを理解するためだった。しかし少年の瞳には、そんな樹里の意図を超えた何かが宿っていた。

「みんなの曲を練習しているの。あなたの曲だけじゃ——」

「違います」少年は首を振った。「樹里さんは僕を選んでくれたんです。僕だけを」

 その時、練習室の空気がぴりりと震えた。エドワードの姿が現れ、彼は明らかに苛立っていた。

「何を勝手な解釈をしている。彼女は我々全員の楽曲を学んでいるのだ」

「エドワードさんこそ、樹里さんを独占しようとしてるじゃないですか」少年は振り返ると、その幼い顔に憎悪にも似た感情を浮かべた。「いつも偉そうに指導して、樹里さんを困らせて」

「指導?私は彼女の才能を開花させているのだ。君のような——」

「もうやめて」樹里は立ち上がった。「お願いです、喧嘩はしないでください」

 しかし少年はエドワードを睨み続けていた。

「僕は生きている時、誰からも愛されませんでした。家族も、先生も、観客も。みんな僕の音楽を理解してくれなかった」少年の声が震えた。「でも樹里さんは違う。僕の音楽を、僕という存在を受け入れてくれた。だから樹里さんは僕だけのものです」

 樹里の背筋に冷たいものが走った。これは単なる感謝や親愛の情ではない。もっと歪んだ、危険な執着だった。

「そんなことはありません」樹里は必死に言葉を探した。「私はあなたの音楽を愛しています。でもそれは他の皆さんも同じです。雅楽院さんも、エドワードさんも——」

「嘘です!」少年が叫んだ瞬間、練習室の電灯が激しく点滅した。「樹里さんは僕のものです。僕だけを見ていればいいんです」

 雅楽院静香の姿が現れた。彼女の表情は普段の穏やかさを失い、厳しいものになっていた。

「あまりに見苦しい。これでは生前と何も変わらないではありませんか」

「静香さんまで」少年の声が裏返った。「みんなして僕を否定するんですね。生きている時と同じように」

「否定しているのではありません」静香は静かに言った。「しかし、この子を自分の所有物のように扱うのは間違っています」

 練習室の温度が急激に下がった。樹里は自分の息が白く見えることに気づいた。少年霊の怒りと絶望が、空間そのものに影響を与えているのだ。

「僕は一人でこの練習室にいたんです。何十年も、何十年も一人で」少年の姿が揺らめき始めた。「やっと、やっと僕を理解してくれる人が現れたのに、なぜ皆さんは邪魔をするんですか」

 エドワードが前に出た。

「君の孤独は理解できる。しかし、それを理由に彼女を束縛する権利はない」

「権利?」少年は嘲笑うように笑った。「あなたこそ、樹里さんに厳しい特訓を強いて、自分の理想を押し付けているじゃないですか」

 確かにエドワードの指導は厳格だった。樹里も時には辛いと感じることがあった。その事実を突かれて、エドワードの表情が動揺した。

「それは、彼女の成長のためだ」

「詭弁です」少年の姿がさらに不安定になった。「みんな結局は自分のためです。自分の音楽を理解してもらいたい、自分の想いを受け取ってもらいたい。僕と何も変わりません」

 樹里は三人の霊たちを見回した。それぞれの顔に、痛みと複雑な感情が浮かんでいた。少年の言葉は残酷だったが、的を射ている部分もあった。

「でも僕は正直です」少年は樹里を見詰めた。「僕は樹里さんが欲しい。樹里さんに僕だけを見ていてほしい。それの何が悪いんですか」

 その瞬間、練習室の窓ガラスがひび割れる音が響いた。少年霊の感情の暴走が、物理的な現象まで引き起こし始めていた。

 樹里は恐怖を感じながらも、少年に向かって手を伸ばした。

「あなたの気持ちはわかります。でも——」

「わからないでしょう!」少年が叫ぶと、樹里の手は空を掴んだ。彼の姿が一瞬で練習室の反対側に移動していた。「生きている人には、死んだ人間の絶望なんてわからない!」

 静香とエドワードが樹里を守るように前に出た。しかし少年霊の力は彼らの予想を超えて強大だった。

「この子から離れなさい」静香が命じた。

「嫌です。僕は樹里さんと一緒にいたい。ずっと、永遠に」

 少年の姿が急激に変化した。幼い顔が歪み、瞳が異様な光を放った。これはもはや、樹里が知っていた人懐っこい少年霊ではなかった。

 エドワードが樹里の前に立ちはだかった。

「危険だ。今すぐここから離れろ」

 しかし樹里の足は震えて動かなかった。少年霊の変貌があまりにも恐ろしく、同時に悲しかった。彼の絶望と孤独がこれほど深いものだったとは。

「樹里さん」変貌した少年が手を伸ばした。「僕と一緒に来てください。生きている世界なんて辛いことばかりでしょう? 僕と一緒なら、音楽だけの世界で幸せになれます」

 その瞬間、樹里は理解した。少年霊は自分を生者の世界から連れ去ろうとしている。永遠に、この練習室に閉じ込めようとしているのだ。

夜想曲と紡がれた亡霊

19

少年霊の暴走

月村 奏子

2026-04-08

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第19話 少年霊の暴走 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版