リョウの消えた練習室に、重い沈黙が降りていた。月光だけが窓から差し込み、床に冷たい光の帯を描いている。樹里は椅子に座ったまま、震える手を膝の上で組んでいた。
「樹里」
エドワードの声が、まるで遠くから聞こえてくるようだった。振り返ると、彼の青い瞳に深い憂いが宿っているのが見えた。
「あの少年は、君を狙っている。もう一人だけでここに来るべきではない」
「でも」樹里は唇を噛んだ。「私が来なければ、あなたたちは永遠にここに囚われたままじゃないの?」
静香が音もなく近づいてきた。彼女の和装の裾が、まるで水面を滑るように床を漂う。
「樹里さん。私たちは長い間ここにいます。それが私たちの運命なのかもしれません」
「そんなの」樹里は立ち上がった。「そんなの諦められない。音楽を愛し続けたあなたたちが、こんな場所に縛られているなんて」
エドワードは複雑な表情で樹里を見つめた。彼の姿が微かに揺らいでいる。
「君の気持ちは分かる。だが、君まで危険に晒すわけにはいかない」
「私は大丈夫」
「リョウのようになってもか?」
その言葉に、樹里は息を呑んだ。リョウの狂気じみた笑顔が脳裏に蘇る。音楽への愛が憎悪に変わり、他者を道連れにしようとする彼の姿。
「君は知らない」エドワードの声が低く響く。「死者になるということの意味を。音楽への情熱が、やがてどれほど歪んだものになっていくかを」
「では、あなたたちもいずれリョウのようになってしまうの?」
静香が悲しそうに微笑んだ。
「分からないのです。私たちも、時々自分の中に暗いものを感じることがあります。この場所にいる限り、私たちの音楽は完成することがない。永遠に満たされないのです」
樹里は拳を握りしめた。彼らの苦痛が、まるで自分のもののように胸に刺さる。
「だからこそ、私が何とかしなければ」
「樹里」
突然、ドアが開いた。修平が息を切らして立っている。彼の顔は青ざめていた。
「修平? どうして」
「君を探していたんだ」修平は室内を見回し、わずかに眉をひそめた。「また、彼らがいるのか?」
樹里は頷いた。修平には霊たちの姿は見えないが、この場所の異質な雰囲気は感じ取れるようだった。
「家まで送る」修平は樹里の手を取った。「今夜はもう帰ろう」
樹里はエドワードと静香を振り返った。二人は無言で頷く。
「また来ます」樹里は小声で呟いた。「必ず」
校舎を出ると、外の空気がひどく冷たく感じられた。修平は黙って歩いていたが、やがて口を開いた。
「樹里、君は本当に彼らを救えると思っているのか?」
樹里は立ち止まった。街灯の下で、修平の顔に真剣な表情が浮かんでいる。
「分からない」樹里は正直に答えた。「でも、やらなければならないと思う」
「危険すぎる」
「分かってる。でも」樹里は夜空を見上げた。「修平は音楽を愛している?」
「当然だ」
「もし、その愛が永遠に報われないとしたら? どんなに努力しても、どんなに想いを込めても、決して完成することがないとしたら?」
修平は答えなかった。
「私には分かるの」樹里の声が震えた。「彼らの苦しみが。音楽への愛が、同時に呪いにもなってしまった人たちの痛みが」
「樹里」
「リョウだって、最初は純粋に音楽を愛していたはず。それが長い年月の間に歪んでしまった。エドワードさんや静香さんも、いつかああなってしまうかもしれない」
樹里は修平の方を向いた。
「私は音楽家になりたい。本当の意味での音楽家に。だとしたら、音楽に人生を捧げた魂たちを見捨てるわけにはいかない」
修平は長い間、樹里を見つめていた。やがて、深いため息をついた。
「君を止めることはできないんだろうな」
「修平」
「でも、一人では行かせない」修平の声に決意が込もられていた。「僕には彼らは見えないが、君を守ることはできる」
樹里の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう」
「ただし、約束してくれ」修平は樹里の肩に手を置いた。「何があっても、一人で抱え込まない。僕に話せないことがあっても、佐々木教授にでも相談する」
「約束する」
二人は再び歩き始めた。樹里の心に、新たな決意が生まれていた。それは恐れを伴う決意だったが、同時に温かい支えに包まれてもいた。
家の前で別れる時、修平が振り返った。
「樹里。君の音楽を聴いていると、時々思うんだ。君の音には、生きている者だけでなく、もっと多くの魂の声が込められているような気がする」
「修平」
「もしかすると、君は最初からこの使命を背負って生まれてきたのかもしれない」
その言葉が、樹里の胸に深く響いた。家に戻ってからも、修平の言葉が頭から離れなかった。
使命。
樹里は窓辺に立ち、音楽大学の方角を見つめた。あの古い建物の中で、今も多くの魂たちが永遠の夜を過ごしている。エドワード、静香、そして狂気に囚われたリョウも。
明日もまた、あの場所に行くだろう。危険を承知で、それでも彼らの元へ。それが自分の道なのだと、樹里は確信していた。
月が雲に隠れ、部屋が暗闇に包まれた時、樹里には微かに聞こえた。遠くから響いてくる、美しくも悲しいメロディーが。それは完成を求めて彷徨う、多くの魂たちの歌声だった。