夕刻の茶房に、秋の気配が静かに漂っていた。窓辺に置かれた小さな花瓶には、いつの間にか薄紅色のコスモスが活けられている。楓は手を止めて花を見つめた。誰が活けたのか、記憶にない。けれど、なぜかその花を見ていると心が温かくなるのを感じていた。
「楓さん」
振り返ると、時雨が入り口に立っていた。いつものように音もなく現れた彼の姿に、楓の胸が微かに高鳴る。理由は分からないが、彼を見ると安らぎと同時に、切ない気持ちが心の奥から湧き上がってくるのだった。
「いらっしゃいませ。今日も紅茶でよろしいですか?」
楓は笑顔で彼を迎えた。時雨は小さく頷くと、いつもの席――窓際の一番奥のテーブルに座った。楓は手慣れた様子で茶葉を選び、お湯を沸かし始める。不思議なもので、彼の好みは記憶を失っても体が覚えていた。
紅茶を運びながら、楓は時雨の横顔を見つめた。憂いを帯びたその表情に、なぜか胸が締め付けられる。
「時雨さん」
「はい」
「あなたは、いつも少し悲しそうな顔をしていますね」
時雨の手が、カップを持つ途中で止まった。彼は楓の顔をじっと見つめ、やがて小さく微笑んだ。
「そうですね。でも、楓さんがいると、その悲しみが少し軽くなるんです」
「私が?」
楓は首を傾げた。なぜ自分にそんな力があるのか、分からない。けれど、彼の言葉は嘘ではないように聞こえた。
「楓さん、あなたは人の心を癒す不思議な力をお持ちです。それは記憶を失っても変わらない、あなた自身の光なんです」
時雨の言葉に、楓は戸惑った。確かに最近、お客様たちと話していると、相手の心の痛みが自分にも伝わってくることがあった。そして、なぜかその痛みを和らげたいと強く思うのだった。
「でも、なぜあなたはそれを知っているんですか?」
楓の問いに、時雨は静かに立ち上がった。そして、彼女の手を優しく取る。
「楓さん、話したいことがあります。少し時間をいただけませんか」
その真剣な眼差しに、楓は頷いた。店の看板を「準備中」に変え、二人は向かい合って座った。
「僕は」時雨が口を開いた。「季節を司る存在です。人間ではありません」
楓は驚いたが、なぜかその言葉を素直に受け入れることができた。彼の周りにいつも漂う不思議な空気感、季節が変わるような錯覚を覚えること、すべてに説明がついた。
「そして、あなたは季節の守護者としての力を持っている。僕たちは運命的に結ばれた存在なんです」
「運命的に?」
「ええ。でも」時雨の声が震えた。「僕たちの関係は、禁じられたものでもありました」
楓は混乱した。季節神と守護者、禁じられた関係。記憶にはないが、なぜか心の奥で納得している自分がいた。
「僕は、あなたを愛しています」
時雨の言葉が、静寂な茶房に響いた。楓の心臓が激しく鼓動を始める。
「記憶を失う前も、今も、そしてこれからも。その想いだけは変わることがありません」
楓は時雨の瞳を見つめた。そこには深い愛と、同じくらい深い悲しみがあった。
「私は、あなたを愛していたのですか?」
「はい。とても深く」
時雨が立ち上がり、楓の前にひざまずいた。そして、彼女の両手を包み込む。
「でも、僕はあなたに選択を迫りたくありません。記憶を失ったあなたが、改めて僕を選んでくれるなら、それ以上の幸せはない。でも、もし違う道を選ばれても、僕はあなたの幸せを願います」
楓の目に涙が浮かんだ。なぜ涙が出るのか分からない。けれど、この人の想いが痛いほど伝わってきた。
「時雨さん」
「はい」
「私には、まだあなたへの想いを思い出すことができません。でも」
楓は時雨の手を握り返した。
「でも、あなたといると心が温かくなります。まるで帰るべき場所を見つけたような気持ちになるんです」
時雨の瞳に希望の光が宿った。
「それなら十分です。時間をかけて、ゆっくりと」
その時、茶房の空気が微かに変わった。秋の風が窓を揺らし、コスモスの花びらがひらりと舞った。時雨の季節の力が、感情に呼応して動いているのだと楓は直感した。
「時雨さん、私にもう一度、あなたのことを教えてください。私たちのことを」
時雨は安堵の表情を浮かべて頷いた。
「いくらでも。あなたが知りたいことを、すべて」
夜が更けていく中、二人は静かに語り合った。失われた記憶の代わりに、新しい想いが芽生え始めているのを、楓は確かに感じていた。
時雨の物語を聞きながら、楓の心の奥で何かが蘇りかけていた。愛の記憶は消えても、愛そのものは心の深いところで生き続けているのかもしれない。
そして楓は知らなかった。時雨が語らなかった真実を。記憶を失ったのは偶然ではなく、二人の愛を阻もうとする大きな力が働いていることを――。