茶房の空気が凍りついた。窓に霜の結晶が刻まれていく音が、しんしんと響いている。楓は震える手でカップを握りしめながら、店内に広がる異様な寒気を感じていた。
「これは……」
時雨の表情が険しくなった。彼の吐く息が白く立ち上り、普段は温かな茶房の空間が、まるで真冬の山小屋のように変貌していく。
「黒瀬の力が強くなっている」時雨が低い声で呟いた。「楓、君の能力を封印するつもりだ」
その時、茶房の扉が勢いよく開かれた。入ってきたのは春香だった。彼女の頬は寒さで赤く染まり、息を弾ませている。
「楓! 外が大変なことに……」
春香の言葉が途中で止まった。店内の異様な様子に気づいたのだ。彼女の足元から氷の結晶が這い上がってくる。
「危険だ、ここから離れて」時雨が春香に向かって手を伸ばした瞬間、楓の体に激痛が走った。
まるで体の奥底から何かが溢れ出すような感覚。楓は膝をつき、床に手をついた。その手から、淡い光が漏れ始める。
「楓!」
時雨が駆け寄ろうとしたが、楓の周囲に見えない壁があるかのように、彼の手が跳ね返された。楓の能力が暴走し始めたのだ。
店内の空気が震え、置かれていた茶器が共鳴するように鳴り響く。楓の心を読み取る力が制御を失い、周囲のあらゆる感情を無差別に吸収し始めていた。
「止めて……」楓は苦しそうに呟いた。「みんなの気持ちが……一度に……」
春香の心配、時雨の焦燥、そして遠くから押し寄せる黒瀬の憎悪。すべての感情が楓の中で渦を巻いている。彼女の体から発せられる光は次第に強くなり、茶房の壁を震わせた。
「このままでは楓の心が壊れてしまう」時雨は拳を握りしめた。「春香さん、楓から離れて」
「でも……」
「お願いします」
春香は不安そうに楓を見つめたが、時雨の真剣な表情に押され、店の奥へと下がった。
時雨は深く息を吸い込み、自分の能力を解放した。季節を操る力が空間に満ち、凍てつく寒気と拮抗していく。彼は楓の能力の暴走を抑えるため、自らの力を盾として差し出そうとしていた。
「楓、僕の声が聞こえるか」
時雨の声は優しく、しかし確固たる意志を込めて楓に届く。彼女の意識は混濁していたが、その声だけは明確に響いた。
「時雨……さん……」
「大丈夫だ。僕がここにいる」
時雨は楓に向かって手を伸ばした。見えない壁が彼の手を阻もうとするが、彼は諦めなかった。季節神としての力を全開にし、楓の暴走する能力に真正面から向き合う。
二人の力がぶつかり合う瞬間、茶房全体が光に包まれた。窓ガラスが振動し、棚の茶葉が舞い上がる。その光の中で、時雨の手がついに楓の手に触れた。
途端に、楓の中で渦巻いていた感情の嵐が静まっていく。時雨の温かな力が、彼女の暴走する能力を包み込み、優しく鎮めていく。
「ありがとう……」
楓は安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間、彼女の意識が薄れ始めた。能力の暴走は止まったものの、その代償は予想以上に大きかった。
時雨は楓を抱きとめた。彼女の体は羽根のように軽く、頬は青白く染まっている。
「楓、しっかりして」
だが楓の瞳は虚ろで、時雨を見つめる視線に焦点が合わない。彼女はゆっくりと口を開いた。
「あなたは……誰?」
時雨の血が凍った。春香も息を呑んだ。楓は記憶を失ったのだ。能力の暴走を止める代償として、大切な記憶の一部が消えてしまったのである。
「僕は時雨だ。君を……楓を愛している」
時雨の声は震えていた。だが楓は首を傾げるばかりで、理解の光は瞳に戻らない。
「ここは……どこ?」楓は店内を見回した。「私の……家?」
幸い、茶房の記憶は残っているようだった。しかし時雨との出会い、共に過ごした時間、お互いへの想い──それらがすべて霧の向こうに消えてしまっている。
「楓……」春香が涙声で呟いた。「私のこと、覚えてる? 春香よ」
楓は春香を見つめ、少し考えてから微笑んだ。
「春香ちゃん……うん、覚えてる。私の大切な友達」
春香はほっと胸を撫で下ろしたが、時雨は複雑な表情を浮かべていた。楓は幼い頃からの記憶は保っているが、ここ最近の記憶──特に時雨に関する記憶が失われているのだ。
楓は時雨を見上げた。その眼差しは好奇心に満ちているが、愛情や親密さはまったく感じられない。まるで初対面の人間を見るような、よそよそしさがあった。
「あの……失礼ですが、お名前を教えていただけますか? なぜか、とても大切な人のような気がするんです」
楓の言葉は時雨の胸を深く刺した。彼女の中に残る記憶の断片が、時雨への想いを微かに残している証拠でもあったが、それがかえって切ない。
「僕は……雨宮時雨です」時雨は努めて平静を装った。「君の……友人です」
友人という言葉を口にするのが、どれほど辛いことか。だが今の楓に真実を告げても、彼女を混乱させるだけだろう。
茶房の寒気は徐々に和らいでいた。黒瀬の攻撃は一旦収まったようだが、これは序章に過ぎない。楓が記憶を失った今、彼女を守ることがさらに困難になった。
春香は時雨の苦悩を察し、そっと彼の肩に手を置いた。
「きっと記憶は戻るわ」彼女は小さな声で励ました。「楓の心の奥には、時雨さんへの想いがちゃんと残ってる。今の言葉でわかったもの」
時雨は頷いたが、表情は晴れなかった。記憶を失った楓をどう守ればいいのか、そして失われた愛を取り戻すことができるのか──不安が胸を締めつけている。
楓は立ち上がると、ふらつきながらも茶房を見回した。
「なんだか、この場所でとても大切なことが起こったような気がするの」彼女は呟いた。「でも、思い出せない……」
夕日が茶房の窓を染めている。いつもならば、時雨と楓が寄り添ってこの美しい時間を過ごしているはずだった。だが今は、二人の間に見えない距離が横たわっている。
時雨は楓の記憶を取り戻す方法を探さなければならない。そして同時に、黒瀬の次の攻撃にも備えなければならない。愛する人の記憶から消えてしまった痛みを抱えながら、彼の戦いは続く。
茶房の静寂の中で、三人の運命の歯車が、新たな局面へと回り始めていた。