朝露が茶房の窓を濡らす頃、時雨は店の向かいの街路樹の陰に立っていた。開店準備をする楓の姿を、じっと見つめている。
彼女の動作は相変わらず丁寧だった。テーブルを拭き、椅子を並べ、花を活け替える。しかし、そこには以前のような温もりがない。まるで美しい人形が決められた動作を繰り返しているかのように、機械的で冷たい。
時雨の胸に鋭い痛みが走った。
楓が自分の心を封印してから、もう一週間が経とうとしている。街の季節は元通りになり、人々の生活は平穏を取り戻した。だが、それと引き換えに失われたものの大きさに、時雨は耐えきれずにいた。
店の扉が開き、開店を告げるベルが鳴る。その音色さえ、どこか寂しげに聞こえた。
最初の客として春香が入っていく。時雨には彼女の表情が見えないが、きっと今日も心配そうな顔をしているのだろう。親友の変化を一番近くで見ている春香の苦しみも、時雨には痛いほど伝わってきた。
「おはよう、楓」
春香の明るい声が、朝の静寂を破る。
「いらっしゃいませ。いつものでよろしいですか」
楓の返事は相変わらず丁寧だが、そっけなかった。以前なら「春香ちゃん、おはよう」と笑顔で迎えていたのに。
時雨は拳を握りしめた。季節を司る神としての自分の存在が、愛する人を苦しめている。この矛盾に、もう耐えられなかった。
昼下がり、時雨は決意を固めて茶房に向かった。
店内には数人の客がいたが、どの顔にも困惑の色が浮かんでいる。かつて心の安らぎを求めて通っていた客たちも、楓の変化を敏感に感じ取っているのだった。
「いらっしゃいませ」
楓が振り返る。その瞳に感情の光は見えない。
「楓」
時雨の呼び方に、楓は一瞬だけ表情を曇らせた。しかしすぐに元の無表情に戻る。
「何になさいますか」
「話がある。今夜、店が閉まったら」
「申し訳ございませんが、営業時間外はお断りしております」
冷たい拒絶の言葉。時雨の心に氷の針が刺さるような痛みが走った。
「楓、君は─」
「お客様、他のお客様のご迷惑になります」
楓の声には、一片の感情も込められていない。まるで見知らぬ人に対するような、よそよそしい敬語だった。
時雨は何も言えずに店を出た。
夜が更けるまで、時雨は商店街を歩き続けた。古い建物の間を吹き抜ける風が、秋の深まりを告げている。季節は確かに正常に巡っている。しかし、それが何の意味を持つというのか。
茶房の明かりが消えた頃、時雨は再び店の前に立った。
裏口から楓が出てくるのを待っていると、やがて足音が聞こえてきた。
「楓」
声をかけると、楓は振り返った。店を出た後も、その表情に変化はない。
「何かご用でしょうか」
「君を見ていられない」
時雨の率直な言葉に、楓の眉がかすかに動いた。
「僕のせいで、君がこんなになってしまった。君の優しさも、温かい心も、全部奪ってしまった」
「私は大丈夫です。これが私の選択ですから」
「大丈夫なものか」時雨の声が震えた。「君は自分自身を殺している。君らしさの全てを封印して、生きる屍になっている」
楓は黙って時雨を見つめている。その瞳の奥で、封印された感情がかすかに揺れているのを、時雨は感じ取った。
「僕が決めた」時雨は深く息を吸った。「僕の力を捨てる。季節神としての能力を全て放棄して、普通の人間になる」
楓の表情が、初めて大きく変わった。
「何を言っているの。それは─」
「君が元の君に戻れるなら、僕はどうなってもいい」
「ダメよ」楓の声に、わずかに感情が戻った。「あなたが力を失ったら、季節の均衡が崩れてしまう。世界中の気候が─」
「知るものか」時雨は首を振った。「世界より、君の方が大切だ」
楓の顔が青ざめた。封印していた感情が、ひび割れた堤防から溢れ出すように湧き上がってくる。
「そんな身勝手な」
「身勝手で結構だ。僕は君を愛している。君の笑顔のない世界に、何の価値もない」
楓の瞳に涙が浮かんだ。心を封印してから初めての涙だった。
「時雨さん、お願い。そんなことは考えないで」
「遅い」
時雨は手を胸に当てた。そこで季節を司る力が脈動している。それを断ち切りさえすれば─。
「僕の心は決まった。明日の朝日が昇る前に、この力を大地に還す。そうすれば君の封印も解けるだろう」
「だめ、それはだめよ」
楓が初めて感情を露わにした。涙を流しながら、時雨の腕を掴む。
「世界中の季節が乱れて、どれだけの人が苦しむかわからない。あなたにはその責任があるの」
「君の苦しみの方が、僕には重い」
「私のために世界を犠牲にするなんて、そんなの愛じゃない」楓の声が震えた。「それは独りよがりよ」
時雨は楓の言葉に、はっとした。彼女の瞳に宿る光─それは確かに、封印される前の楓の面影だった。
「僕は─」
「あなたが本当に私を愛してくれているなら」楓は涙を拭った。「どうか、その愛を世界のためにも使って」
時雨は楓の言葉に打たれた。愛する人を救いたい一心で、自分がいかに視野を狭めていたかを思い知らされた。
「でも、このままじゃ君は─」
「きっと、他に道があるはず」楓が微笑んだ。わずかだが、確かに以前の温かさが戻っている。「冬木さんがおっしゃっていた。愛には全てを変える力があるって」
時雨の胸に、小さな希望の灯が点った。
二人は静かな商店街に佇んでいた。街灯の下で、楓の涙が光っている。
「もう少しだけ、時間をちょうだい」楓が呟いた。「きっと答えが見つかる」
時雨は頷いた。しかし心の奥で、明日への不安が渦巻いていた。果たして、二人に残された時間はどれほどなのだろうか。