枕元の紅葉が朝日を受けて輝いている。昨夜時雨が残していった、言葉にならないメッセージ。楓は震える指でその葉を拾い上げた。葉脈の一本一本に、彼の想いが込められているような気がする。
「時雨……」
彼の名前を呟いた瞬間、部屋の温度が微かに上がったような気がした。いや、気のせいではない。窓の外を見ると、昨日まで黄金色に染まっていた街路樹の葉が、一夜にして深紅に変わっている。
楓は慌てて着替えを済ませ、茶房の準備を始めた。しかし、店に下りて驚いた。ドアの向こうに見える商店街の様子が、どこかおかしい。
「これは……」
扉を開けると、生暖かい風が頬を撫でていった。十一月だというのに、空気は五月のように柔らかく、道行く人々は上着を脱いで歩いている。八百屋の前田さんが慌てたように楓に手を振った。
「楓ちゃん、大変だよ。朝起きたら急に暖かくなっちゃって、野菜が傷むんじゃないかって心配で」
「そうですね……確かに変ですね」
楓の胸に不安がよぎる。まさか、これは。
茶房に戻ると、春香が青ざめた顔で飛び込んできた。
「楓、ニュース見た? 関東一円で異常な暖かさって言ってるよ。それに、紅葉が一夜で色を変えるなんて、植物学者も首をかしげてるって」
「春香……」
「まさかとは思うけど、これって時雨さんと関係があるんじゃない? あの人、季節を操る力があるって言ってたでしょ?」
楓は答えることができなかった。春香の推測は、きっと正しい。自分が時雨への想いを強めれば強めるほど、季節が乱れている。
昼過ぎ、常連の田中さんが慌てたように駆け込んできた。
「楓さん、大変なことになってるわね。うちの庭の桜が咲き始めてるの。十一月だっていうのに」
「え……」
「それも、昨日までは普通だったのよ。今朝見たら、蕾が膨らんで、お昼頃には三分咲きになってて」
楓の手が震えた。ティーカップを持つ指に力が入らない。
「楓さん、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「すみません、少し……」
その時、茶房のドアベルが鳴った。振り返ると、時雨が立っている。いつもの落ち着いた表情だが、どこか切羽詰まったような雰囲気を纏っていた。
「楓」
彼の声が聞こえた瞬間、店内の温度がまた上がった。田中さんが驚いたようにあたりを見回している。
「あの、田中さん、申し訳ありませんが、今日はここで」
「ええ、分かったわ。何だか大変そうね」
田中さんが帰った後、楓は時雨と向き合った。二人きりになった途端、季節の気配がさらに混乱し始める。窓の外では、桜の花びらと紅葉が同時に舞い踊っていた。
「これは……私たちのせいなの?」
「ああ」時雨は重々しく頷いた。「君への想いが、僕の力を暴走させている。季節神である僕が感情に流されると、自然界全体に影響が及ぶ」
「どうして教えてくれなかったの?」
「知れば、君は僕から離れようとするだろう。それが怖かった」
楓は立ち上がり、窓辺に向かった。商店街では人々が異常気象に戸惑いながらも、どこか楽しそうに春の陽気を楽しんでいる。しかし、これは間違っている。自然の摂理を乱している。
「私の心も、関係してるの?」
「君の力は人の心を癒す。でも同時に、感情を増幅させる力でもある。君が僕を想うたび、その気持ちが僕の能力を刺激して……」
時雨の言葉が途切れた。楓は振り返ると、彼の瞳に深い苦悩を見た。
「僕は君を愛している。でも、この愛が世界を狂わせるなら……」
「やめて」楓は時雨の言葉を遮った。「責任を一人で背負わないで」
二人の間に沈黙が流れる。その間も、外では季節の混乱が続いていた。雪虫と蝶々が同じ空を舞い、桜と紅葉が同じ木に咲き誇っている。
「時雨、質問があるの」
「何でも聞いてくれ」
「あなたの力を制御する方法はないの? 愛することをやめる以外に」
時雨は長い間考えていた。やがて、重い口調で答えた。
「一つだけある。でも、それは君にとって大きな犠牲を伴う」
「どんなこと?」
「君が完全な守護者として覚醒することだ。人間としての感情を一部封印し、純粋に人々を癒すことだけに力を注げば、僕の暴走を抑制できるかもしれない」
「それって……」
「君の人間らしさを失うことになる。恋をする喜びも、悲しみも、すべて薄れていく」
楓は胸が締め付けられるような思いがした。愛する人と結ばれるために、愛することをやめなければならない。なんという皮肉だろう。
夕方になると、異常気象はさらに激しくなった。商店街では桜祭りと紅葉狩りが同時に始まり、人々は困惑しながらも祭りムードに包まれている。しかし、テレビのニュースでは農作物への被害や、生態系への影響が深刻に報じられていた。
「楓、決断の時が来た」時雨が静かに言った。「これ以上続けば、取り返しのつかないことになる」
「分かってる」
楓は茶房の中央に立ち、深く息を吸った。窓の外では、相変わらず四季が混在している。この美しくも歪んだ光景を見つめながら、彼女は心の奥深くに問いかけた。
愛とは何だろう。人を想う気持ちが、こんなにも世界を変えてしまうものなのか。田中さんが語った四十五年の夫婦愛は、きっと穏やかで深いものだった。それに比べて、自分と時雨の恋は激しすぎる。
「時雨」楓は振り返った。「もう少し時間をちょうだい。今すぐには決められない」
「楓……」
「でも、このまま街の人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。今夜、あなたは私から離れて。物理的な距離を置けば、少しは収まるでしょう?」
時雨は苦しそうに頷いた。
「分かった。でも、君が危険に晒されることがあったら、すぐに駆けつける」
「ありがとう」
時雨が立ち去った後、楓は一人で茶房に残った。窓の外では、徐々に季節の混乱が落ち着き始めている。桜の花びらが散り、紅葉の色も自然な秋の装いに戻りつつあった。
だが、楓の心は決まらなかった。愛する人のために自分を犠牲にするのか、それとも別の道があるのか。
その時、茶房のドアが静かに開いた。振り返ると、久しぶりに冬木老人が立っていた。
「お久しぶりです、楓さん。少し、お話をしませんか」
老人の瞳に、深い知恵の光が宿っていた。