山道を登りながら、楓は冬木老人の言葉を反芻していた。季節神の末裔である時雨と、季節の守護者としての自分。運命という言葉が、これほど重く感じられたことはなかった。
「楓ちゃん、大丈夫?」
隣を歩く春香が心配そうに声をかける。楓は小さく頷いたが、胸の奥で何かが大きく揺れ動いているのを感じていた。
神社は思っていたより小さく、古い。朱塗りの鳥居は色褪せ、石段には苔が生えている。しかし、ここに足を踏み入れた瞬間、楓は異様な静寂を感じた。風も鳥のさえずりも、まるでこの場所だけ時が止まっているかのようだった。
「時雨さん?」
楓の呼びかけに応える声はなかった。本殿の前まで進むと、彼は石段に座り込んでいた。後ろ姿だけでも、その疲れ果てた様子が分かる。
「時雨さん」
今度は確かに届いたようで、彼は振り返った。いつもの穏やかな表情はなく、まるで深い霧の中を彷徨っているような、曖昧な顔だった。
「楓……なぜここに」
「冬木さんから聞いたの。あなたのことを」
時雨の瞳に、一瞬驚きが走った。
「そうか……ついに、話したのか」
彼は立ち上がり、楓の前に歩いてきた。その足取りはひどくおぼつかない。
「楓、君には申し訳ないことをした。最初から真実を話すべきだった」
「そんなこと、どうでもいいの」楓は首を振った。「今のあなたが心配なの」
時雨は苦しそうに微笑んだ。
「僕の力は暴走している。現代という時代は、季節神には厳しすぎる。人工的な環境、自然のリズムから切り離された生活……僕たちの存在意義が揺らいでいるんだ」
その時、楓の胸の奥で何かが共鳴した。時雨の苦しみが、まるで自分のもののように感じられる。これが冬木老人の言っていた「繋がり」なのだろうか。
「でも、あなたは消えない」楓は一歩前に出た。「私が支えるから」
「楓……」時雨の瞳が揺れた。「君にそんな重荷を背負わせるわけにはいかない。君には君の人生がある」
「私の人生?」楓は首をかしげた。「私の人生って何? 普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に年を取ることが私の人生?」
春香が息を呑む音が聞こえた。楓は振り返ると、親友に向かって優しく微笑んだ。
「春香ちゃん、ありがとう。今まで私のことを心配してくれて。でも、私はもう決めたの」
「楓ちゃん……」
楓は再び時雨の方を向いた。
「茶房を継いだ時から、薄々感じていたの。あの場所には特別な力がある。私にしかできないことがある」
冷たい山の風が吹いて、楓の髪を揺らした。しかし、彼女の心は驚くほど静かだった。
「冬木さんから聞いたの。私の力は季節神と人間を繋ぐものだって。だったら、私の使命は明確よ。あなたを支えて、季節の調和を守ること」
「楓……君はまだ若い。そんな重大な決断を」
「若いから決断できるのかもしれない」楓は時雨の手を取った。「年を重ねれば重ねるほど、選択肢は狭くなる。今の私には、まだ何にでもなれる可能性がある。そして私は、あなたの力になりたい」
時雨の手は驚くほど冷たかった。楓はその手を両手で包み込んだ。
「でも、普通の幸せを諦めることになる」時雨は苦しそうに言った。「僕と一緒にいれば、君は永遠に特別な存在であり続けなければならない。結婚も、家族も……」
「それが普通の幸せだと、誰が決めたの?」楓は首を振った。「私の幸せは私が決める。そして私は、あなたと一緒にいることが幸せなの」
その瞬間、時雨の瞳から一筋の涙が流れた。
「楓……」
彼の手が暖かくなってきた。楓の癒しの力が、確かに働いているのが分かる。
「私たちは出会うべくして出会った」楓は確信を込めて言った。「偶然なんかじゃない。あなたが茶房に現れた時から、私は分かっていたの。あなたが特別な人だって」
春香が後ろで静かに涙を拭いている音がした。楓は振り返らなかった。今は時雨だけを見つめていたかった。
「でも……」
「でもじゃない」楓は強く言った。「私はもう決めた。季節の守護者として生きる。あなたと一緒に、この世界の調和を守る。それが私の選択」
時雨は長い間、楓を見つめていた。やがて、彼の顔に諦めにも似た安堵の表情が浮かんだ。
「君は……本当に強い人だ」
「強くなんかない」楓は首を振った。「ただ、自分の気持ちに正直になっただけ」
その時、神社の境内に暖かい風が吹いた。桜の花びらが舞い散り、まるで祝福しているかのようだった。時雨の力が安定してきているのが分かる。
「楓ちゃん」春香が近づいてきた。「本当に、これでいいの?」
「うん」楓は振り返って親友に微笑んだ。「これが私の道だから」
春香は複雑な表情をしていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。なら、私は楓ちゃんの決断を応援する。でも、寂しくなったら茶房に顔を出しなさいよ」
「当然よ」楓は笑った。「春香ちゃんは私の一番大切な友達なんだから」
三人は神社の石段に座り込んだ。夕日が山の向こうに沈み始めている。
「これからどうするの?」春香が聞いた。
「まずは茶房に戻る」楓は時雨を見た。「そして、本当の守護者としての修行を始める」
「僕が教えられることは教える」時雨は頷いた。「でも、楓の力は僕の知らない領域にまで及んでいる。きっと、冬木さんがまた現れて指導してくれるだろう」
「冬木さん……」楓は空を見上げた。「あの人は一体何者なの?」
「元々の季節の守護者だ」時雨が答えた。「何百年も前から、この役目を担ってきた。しかし、時代の変化とともに、その役割を若い世代に託すことにしたんだ」
「そして私が選ばれた……」
「選ばれたのではない」時雨は楓の手を握った。「君が自分で選んだんだ。それが一番大切なことだ」
楓は時雨の手の暖かさを感じながら、胸の奥に確かな決意が宿るのを感じていた。不安がないと言えば嘘になる。しかし、それ以上に大きな希望があった。
山道を下りながら、楓は商店街の灯りを見つめた。あそこに自分の居場所がある。そして、これからもずっと、人々の心を癒し続けるのだ。
新たな季節が始まろうとしていた。