商店街の皆と対策を話し合った翌日、楓は朝からいつものように茶房の準備を始めていた。昨夜は遅くまで時雨と今後のことを語り合い、彼の意外な協力的な姿勢に心を温めていた。再開発という大きな波が押し寄せても、みんなで力を合わせれば乗り越えられる。そんな希望に満ちた気持ちで店の扉を開けた時、楓は息を呑んだ。
茶房の前庭に、桜の花びらが舞い散っている。しかし、その足元には真っ白な雪が積もっていた。
「これは…?」
楓は慌てて外に出た。商店街を見渡すと、さらに異様な光景が広がっていた。魚屋の店先では氷柱が垂れ下がり、その隣のパン屋からは夏の陽炎が立ち上っている。向かいの花屋では、春の菜の花と秋のコスモスが同じプランターに咲き乱れ、八百屋の店頭では夏野菜と冬野菜が並んで売られていた。
季節が、完全に混乱していた。
「楓ちゃん、大変よ!」
春香が息を切らして駆けてきた。彼女の髪には雪が付いているのに、頬は夏の日差しで赤く焼けていた。
「うちの店、半分が氷に覆われて、半分が灼熱なの。お客さんも困惑してるし、商品も…」
「落ち着いて、春香ちゃん」
楓は春香の手を取りながら、周囲を見回した。通りを歩く人々も皆、異常な気候に戸惑っている。コートを着た人と半袖の人が並んで歩き、傘を差しながらサングラスをかけている人まで見える。
この季節の混乱は、明らかに自然現象ではなかった。楓の心に、一つの名前が浮かんだ。
「時雨さん…」
楓は茶房に戻ると、急いで時雨に電話をかけた。しかし、呼び出し音が延々と続くだけで、彼は出なかった。
「楓さん」
振り返ると、冬木老人が店の入り口に立っていた。普段の穏やかな表情とは違い、その顔には深刻な影が差していた。
「お察しの通り、これは時雨君に関わることです」
「やっぱり。でも、なぜこんなことが…」
冬木老人はゆっくりと奥の席に座った。楓は慌てて茶を淹れながら、老人の言葉を待った。
「季節神である時雨君の力が、不安定になっているのです。おそらく、強い感情の動揺が原因でしょう」
「感情の動揺?」
楓は茶碗を老人の前に置いた。外では相変わらず雪と桜の花びらが同時に舞い、夏の蝉の鳴き声と秋の虫の音が混じり合っている。
「季節神は本来、人間世界から距離を置いて存在すべき者。しかし時雨君は、この茶房に、そしてあなたに深く関わり続けた。その結果、人間的な感情が芽生え、それが力の制御を困難にしているのです」
楓の胸が締め付けられた。時雨が苦しんでいるのは、自分のせいなのだろうか。
「昨日の話し合いで、時雨さんも再開発に反対してくれました。みんなと一緒に戦うって…」
「それこそが問題なのです」老人は静かに茶を啜った。「季節神が人間の社会に深く介入し、特定の場所や人に執着を持つことは、自然の摂理に反します。おそらく時雨君は、自分の立場と感情の狭間で混乱しているのでしょう」
その時、茶房の窓ガラスに激しく雹が打ち付けた。しかし、同時に外から蝉の鳴き声も聞こえてくる。楓は窓の外を見つめながら、時雨の苦悩を想像した。
午後になっても、季節の混乱は収まらなかった。それどころか、さらに激しくなっているように思えた。商店街の人々が次々と茶房にやってきて、異常気象について相談を求めた。
「楓ちゃん、これ再開発と関係あるのかしら」パン屋の奥さんが不安そうに呟いた。「何だか不吉な予兆みたいで」
「きっと大丈夫です」楓は笑顔を作りながら答えたが、心の中では焦りが募っていた。
時雨はまだ連絡が取れない。彼がどこで何をしているのか、そしてなぜ力が暴走しているのか、楓には分からなかった。
夕方、ついに楓は決心した。お客さんが帰った後、彼女は春香に店を任せて時雨を探しに出かけた。
「どこに行くつもり?」春香が心配そうに尋ねた。
「分からない。でも、きっと見つけられる」
楓は自分の直感を信じていた。時雨との間には、言葉では説明できない繋がりがある。それを頼りに、彼を見つけ出すしかなかった。
商店街を抜け、住宅地を通り、やがて楓は町外れの小さな神社にたどり着いた。そこは、以前時雨と一緒に来たことがある場所だった。
境内に足を踏み入れた途端、楓は息を呑んだ。神社の境内では、四季が同時に展開されていた。桜、新緑、紅葉、雪景色が、まるで万華鏡のように入り混じっている。
そして、その中心に時雨がいた。
彼は本殿の前に座り込み、頭を抱えていた。その周りで季節が激しく変化し続けている。楓は慎重に近づいた。
「時雨さん」
時雨が顔を上げた。その表情は、楓が見たことがないほど苦悩に満ちていた。
「楓…来てはいけない。僕の近くにいると危険だ」
「大丈夫。私は平気です」
楓は時雨の隣に座った。瞬間、彼女の体に四季の気候が同時に襲いかかった。暑さ、寒さ、湿気、乾燥。しかし、楓は動じなかった。
「何が起きているの?話して」
時雨は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「僕は…季節神として生まれ、ただ自然の摂理に従って生きてきた。感情も執着も持たずに。でも、君と出会って全てが変わった」
境内の季節の変化がさらに激しくなった。桜吹雪の中に雪が混じり、紅葉の葉が夏の強風で舞い上がる。
「君を愛してしまった。この茶房を、商店街を、ここで生きる人々を愛してしまった。でも、それは僕が存在すべき理由と矛盾する。季節神は公平でなければならない。特定の場所や人に肩入れしてはいけない」
楓は時雨の手を握った。その手は氷のように冷たく、同時に炎のように熱かった。
「昨日、みんなと一緒に再開発に立ち向かうと決めた時、僕は完全に一線を越えてしまった。季節神として失格だ。だから、力が暴走している」
「そんなこと…」
「僕がいることで、この街に、君に迷惑をかけている。もう、僕は…」
時雨の言葉を遮るように、境内の季節の混乱が頂点に達した。春夏秋冬が激しく入れ替わり、まるで時間そのものが壊れてしまったかのようだった。
楓は必死に時雨の手を握り締めた。自分の持つ人の心を読む力を、今度は時雨に向けて集中させた。彼の心の奥深くに触れようとした時、楓の意識は突然闇に包まれた。
彼女が最後に感じたのは、時雨の絶望的なほど深い孤独と、それと同じくらい強い愛情だった。