鏡月斎の冷たい笑みが洞窟の奥に響いた。松明の炎が彼の顔を不気味に照らし出し、まるで鬼の面を被った能楽師のようだった。
「師よ、まだそのような戯言を」
源蔵は千鶴を庇うように前に立ちはだかった。その老いた背中に、かつての弟子への深い失望が滲んでいた。
「戯言とは何事か。心魂草の真の力を理解しようとせず、己の欲望に溺れたのはお前の方ではないか」
「真の力?」鏡月斎は嘲笑を浮かべる。「人の心を自在に操り、記憶を書き換える。これほどの力があろうか。師こそ、時代遅れの理想に固執しておられる」
千鶴は手の中の心魂草を見詰めた。淡い紫色の花弁が微かに光を放ち、不思議な温もりを感じる。これが本当に心の傷を癒すものなのか。それとも、恐ろしい毒なのか。
慎之助が刀の柄に手をかけた。
「千鶴、下がっていろ。俺が―」
「待って」千鶴は慎之助の腕を掴んだ。「源蔵様、教えてください。心魂草の正しい使い方を」
源蔵は振り返り、千鶴の瞳を見詰めた。その眼差しには深い慈愛が宿っていた。
「心を空にするのだ。己の欲望も、恐怖も、すべてを手放して。そして、救いたいと願う者の痛みを、我が痛みとして受け入れよ」
千鶴は静かに頷き、心魂草を口に含んだ。最初は苦味が広がったが、やがてそれは甘露のような味わいに変わった。
突然、頭の中に映像が浮かんだ。
―桜の花びらが舞う春の午後、幼い千鶴が父と薬草を摘んでいる。
―慎之助と川辺で蛍を捕まえた夏の夜。
―お雪が茶屋で初めて接客した時の、緊張と喜びに満ちた表情。
これらは、本当の記憶だった。鏡月斎の薬草によって歪められる前の、真実の思い出。
「これは…」
千鶴の記憶が次々と蘇った。父が病に倒れた時のこと、慎之助が同心になった日のこと、そして何より―お雪が茶屋で働きながらも、いつも笑顔を絶やさなかった日々のこと。
「お雪…」
千鶴の頬に涙が伝った。お雪は決して鏡月斎の言うような悪い娘ではなかった。貧しい家計を支えるために必死に働き、それでも人々に優しさを忘れない、心の美しい少女だった。
鏡月斎の顔が歪んだ。
「馬鹿な…純粋な心魂草など、もはや―」
「存在する」源蔵が静かに言った。「お前が忘れただけだ。本来の心魂草は、失われた真実を照らし出すもの。千鶴よ、感じるままに」
千鶴は目を閉じ、心の奥深くに意識を向けた。すると、お雪の声が聞こえてきた。
『千鶴さん…助けて…本当の私を…思い出して…』
それは幻聴ではなかった。心魂草が繋げた、魂と魂の対話だった。
「お雪、聞こえるのね」千鶴は微笑んだ。「大丈夫よ。もうすぐ、あなたを本当の世界に連れ戻してあげる」
千鶴は立ち上がり、鏡月斎を見据えた。もはや恐怖はなかった。真実の記憶が彼女に力を与えていた。
「鏡月斎、あなたは間違っている。心魂草の力は人を支配するものではない。傷ついた心を癒し、失われた絆を取り戻すものよ」
鏡月斎は後ずさりした。千鶴の瞳に宿る光に、何か恐ろしいものを感じ取ったのだ。
「貴様…まさか、真の使い手に…」
「そうです」源蔵が誇らしげに言った。「この娘こそ、心魂草の正しい継承者。お前のような邪な心では決して辿り着けない境地にいる」
千鶴は残りの心魂草を大切に懐にしまった。
「慎之助、源蔵様、お手伝いください。お雪だけでなく、鏡月斎の実験で苦しんでいるすべての人を救いましょう」
慎之助は千鶴の横に立った。
「当然だ。お前と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる」
源蔵も深く頷いた。
「長い間、弟子の過ちを正せずにいた。今こそ、真の医術で人々を救う時が来たのだ」
鏡月斎は歯軋りをした。
「甘い…甘すぎる。所詮は理想論だ。現実の前には―」
その時、洞窟の外から複数の足音が聞こえてきた。鏡月斎の手下たちが追いついたのだ。
「師よ、急いでこちらへ」源蔵が奥の通路を指差した。「地上に続く別の道がある」
四人は急いで通路に向かった。鏡月斎が何か叫んでいたが、もう千鶴の耳には届かなかった。彼女の心は希望で満たされていた。
真実の記憶を取り戻した今、千鶴には確信があった。心魂草の正しい力があれば、必ずお雪を救えると。そして、同じように苦しんでいる人々すべてを。
通路の向こうから、かすかに朝の光が差し込んでいた。長い夜がようやく明けようとしていた。