太鼓の音が微かに響く薄暗い廊下で、千鶴は慎之助の温もりを感じながら息を整えていた。心魂草の幻覚に惑わされ続けた恐怖から解放され、ようやく信頼できる人が隣にいるという安堵感に包まれていた。しかし、その静寂を破るように、背後から足音が響いてきた。

「誰か来る」

 慎之助が刀の柄に手をかけ、千鶴を庇うように前に出た。足音は複数人のもので、明らかに彼らの存在に気付いている様子だった。

「待ってください」

 聞こえてきたのは、意外にも女性の声だった。千鶴と慎之助は身構えたまま振り返ると、薄暗い廊下の向こうから三人の人影が現れた。先頭を歩く女性は白い着物を纏い、その後ろには黒装束の男性が二人続いている。

「私たちは敵ではありません」

 女性はゆっくりと近づいてきた。月明かりがわずかに差し込む窓辺で、その顔がはっきりと見えた。三十代半ばと思われる美しい女性で、知的な瞳をしていたが、その表情には深い憂いが宿っていた。

「貴女は一体……」

「私の名は椿。この組織の一員でした」

 椿と名乗った女性の言葉に、千鶴は身を強ばらせた。組織の一員と聞けば警戒するのは当然だった。しかし、椿の次の言葉は予想外のものだった。

「でした、と申し上げたのは、もはや鏡月斎の暴走を止められないと悟ったからです。私たちは貴方がたに協力したい」

 慎之助が眉をひそめた。

「組織の者が我々に協力だと? 何かの罠ではないのか」

「お疑いになるのは当然です」椿は静かに頷いた。「しかし、聞いてください。私たちは元々、人を救うための薬草研究を志していました。心魂草の力で心の病を治し、人々の苦しみを和らげることが目的だったのです」

 千鶴は椿の表情を見詰めた。その瞳には、確かに後悔と決意の色が浮かんでいた。

「それが、いつの間にか鏡月斎の個人的な欲望に利用されるようになった」椿の声が震えた。「お雪のような無垢な少女を犠牲にし、人を操り人形のように扱う。これは私たちが望んでいた研究ではありません」

 千鶴の心に、わずかな希望が芽生えた。組織の内部にも良心を持つ者がいるのならば、この絶望的な状況を打開する手がかりになるかもしれない。しかし同時に、これまで幾度となく裏切られ、騙され続けてきた経験が、安易に信頼することを躊躇わせた。

「貴方がたが本当に協力してくれるというのなら」千鶴はゆっくりと口を開いた。「まず、鏡月斎の居場所を教えてください。そして、心魂草の解毒方法を」

「鏡月斎は今、屋敷の最も奥にある秘密の部屋にいます」椿が指差した方向は、まさに太鼓の音が響いてくる方向だった。「あの太鼓の音は、新たな実験の合図です。おそらく今夜、また犠牲者が……」

 その時、太鼓の音が一段と激しくなった。千鶴の胸に不安が走る。

「急がなければ」

「待ってください」椿の後ろにいた男性の一人が前に出た。「私は元々、この組織で薬草の調合を担当していた者です。心魂草の解毒については、完全ではありませんが方法を知っています」

 男性は懐から小さな包みを取り出した。

「この薬草を煎じて飲めば、心魂草の幻覚作用を和らげることができます。ただし、根本的な解決にはなりません。時間を稼ぐ程度の効果しかないでしょう」

 千鶴は包みを受け取りながら、相手の顔をじっと見詰めた。誠実そうな表情をしているが、心魂草の幻覚の中では、鏡月斎でさえ慎之助の姿で現れたのだ。目の前の人々も幻覚である可能性を完全に排除することはできなかった。

「貴方がたを信じたい気持ちはあります」千鶴は慎重に言葉を選んだ。「しかし、これまで何度も騙されてきました。どうすれば貴方がたが本物だと証明できるでしょうか」

 椿は千鶴の疑念を理解するように頷いた。

「当然の疑問です。では、これはいかがでしょう」

 椿は自分の袖をまくり上げた。そこには、無数の針で刺されたような細かい傷跡があった。

「これは心魂草の実験を自分の身体で行った痕です。私たちも鏡月斎の実験台にされていたのです。幻覚の中では、このような生々しい痕は再現されないはずです」

 千鶴は椿の腕を見て息を呑んだ。確かに、それは現実でなければ存在し得ない、痛々しい証拠だった。

「私たちにも失うものがあります」もう一人の男性が口を開いた。「この組織に家族を人質に取られている者もいる。しかし、もうこれ以上、罪なき人々が犠牲になるのを見ていることはできません」

 慎之助が千鶴に小さく頷いた。彼もまた、椿たちの言葉に真実を感じ取っているようだった。

「分かりました」千鶴は決意を込めて言った。「貴方がたを信じます。でも、もし裏切られたなら……」

「その時は、私たちの命に代えても貴方がたをお守りします」椿は深く頭を下げた。

 太鼓の音が再び響き、今度は明らかに緊急性を帯びていた。

「急ぎましょう」椿が立ち上がった。「鏡月斎の部屋に続く道は二つあります。正面から向かう道と、裏から回り込む秘密の通路です」

「秘密の通路?」

「はい。元々は緊急時の脱出路として作られたものですが、逆に侵入することも可能です。ただし、その途中には罠が仕掛けられている可能性があります」

 慎之助が考え込んだ。

「二手に分かれるという手もあるが……」

「いえ」千鶴は首を振った。「一緒にいましょう。これ以上離ればなれになるのは嫌です」

 椿は千鶴の気持ちを理解するように微笑んだ。

「では、秘密の通路を使いましょう。正面から向かうよりも安全です。ただし、途中で鏡月斎の腹心と遭遇する可能性があります」

 一行は椿の案内で、薄暗い廊下をさらに奥へと進んだ。千鶴は慎之助の手を握りながら、心の中で複雑な思いを抱いていた。椿たちを信じたいという気持ちと、まだ完全には信頼しきれない疑念が混在していた。

 程なくして、椿は壁の一部に手をかけた。するとその部分がゆっくりと回転し、狭い通路が現れた。

「ここからが秘密の通路です」椿が振り返った。「明かりは最小限にしてください。音を立てないよう、細心の注意を払って進みましょう」

 通路は思った以上に狭く、一人ずつしか通れない幅だった。椿が先頭に立ち、その後に千鶴、慎之助、残りの二人が続いた。

 歩を進めるうちに、千鶴はふと気付いた。椿たちが現れたタイミングが絶妙すぎるのではないかと。まるで彼女たちが太鼓の音が響く最深部に向かうのを待っていたかのようだった。

 しかし、今更引き返すわけにもいかない。お雪を救い、鏡月斎を止めるためには、リスクを承知で前に進むしかなかった。

 通路の向こうから、かすかに人の声が聞こえてきた。椿が手を上げて一行を制止する。

「鏡月斎の声です」椿が小声で告げた。「もうすぐ部屋の裏側に着きます」

 千鶴の心臓が激しく鼓動した。ついに、すべての元凶である鏡月斎と対峙する時が来たのだ。しかし、その瞬間、椿が振り返った時の表情に、千鶴は何かしらの違和感を覚えた。

 それは安堵でも決意でもない、まったく別の感情が宿った瞳だった——。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

30

組織の内部分裂

霧島 彩乃

2026-04-19

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第30話 組織の内部分裂 - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版