暗闇の中で、千鶴の瞳に宿った光を見つめていた者がいた。

 「まさか……心魂草の幻覚を、あのような方法で振り払うとは」

 鏡月斎の冷たい声が地下室に響く。しかし、その声には微かな動揺が混じっていた。千鶴の純粋な想いが生み出した光は、彼の想像を遥かに超えていたのだ。

 「貴様は薬草の真の力を理解していない」千鶴は縛られたまま、毅然として言い放った。「薬草は人を救うためにこの世に生まれたのです」

 「戯言を」鏡月斎が嘲笑しようとした時、地下室の奥から微かな足音が聞こえてきた。

 薄暗い通路の向こうから現れたのは、白い着物を纏った細い影だった。月光のように青白い肌、虚ろな瞳──それは、お雪だった。

 「お雪……」千鶴の胸が締め付けられた。

 かつて茶屋で人々に愛された美しい少女は、今や生ける屍のような姿で立っていた。心魂草の実験により、現実と幻覚の境界を彷徨い続けるお雪の瞳には、もはや生気は宿っていない。

 「お雪、よく来た」鏡月斎が満足そうに頷く。「この娘を始末しろ。お前にとって、それは造作もないことだろう」

 お雪がゆっくりと千鶴に向かって歩き始める。その手には、鋭く光る短刀が握られていた。

 「お雪さん……」千鶴は必死に呼びかけた。「私のことを覚えていますか。あなたを助けたいと思っている者がいることを」

 お雪の足が一瞬止まった。虚ろだった瞳に、かすかな光がさした。

 「千鶴……さん?」

 掠れた声で名前を呼ぶお雪の表情に、微かな人間らしさが戻っていた。鏡月斎の眉間に皺が寄る。

 「何をしている。早く始末しろ」

 しかし、お雪は短刀を持つ手を震わせながら、千鶴の前で立ち尽くしていた。心の奥底に残されたわずかな理性が、必死に抵抗しているのだ。

 「私は……私は一体……」お雪の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「千鶴さん、私……ひどいことをしてしまった。あなたを……あなたを騙して……」

 「お雪さん」千鶴の声は優しかった。「あなたは悪くない。悪いのは、あなたを利用した者たちです」

 お雪の肩が大きく震えた。彼女の中で、最後に残された人間性が、薬草の呪縛と必死に戦っていた。

 「何をぐずぐずしている」鏡月斎が苛立ちを隠さず、懐から別の薬草を取り出した。「さらに強い薬を使えば──」

 その時、お雪が振り返った。その瞳には、一瞬だけ、かつての美しい少女の光が宿っていた。

 「もう……十分です」

 お雪の声は、透明な鈴の音のように美しく響いた。そして次の瞬間、彼女は鏡月斎に向かって短刀を構えていた。

 「貴様……まさか意識を取り戻したのか」鏡月斎が後ずさりする。

 「私は……たくさんの人を傷つけました」お雪の声には、深い悲しみが込められていた。「でも、これ以上は……もう誰も傷つけたくない」

 お雪は千鶴を縛る縄に短刀を当てがった。鋭い刃が縄を断ち切り、千鶴の手足が自由になる。

 「お雪さん……」

 「千鶴さん、お逃げください」お雪は振り返ると、微笑んだ。それは、茶屋で多くの客に愛された、あの美しい笑顔だった。「私が時間を稼ぎます」

 「でも、あなたは──」

 「私は、もうずっと前に死んでいたのです」お雪の瞳から、また涙がこぼれた。「心魂草の実験で、私の心は壊れてしまった。でも最後に……最後だけは、人間として死にたい」

 鏡月斎が他の手下を呼ぼうと声を上げようとした時、お雪が彼の前に立ちはだかった。

 「お雪! 邪魔をするな!」

 「千鶴さん、早く!」お雪が叫んだ。「地下室の奥に隠し通路があります。そこから外に出られる!」

 千鶴は迷った。お雪を置いて逃げるなど──しかし、お雪の決意に満ちた瞳を見て、彼女は理解した。これは、お雪が最後に選んだ、人間としての尊厳なのだと。

 「お雪さん……ありがとう」

 千鶴は短刀を受け取ると、お雪に深く頭を下げた。そして地下室の奥へと駆け出した。

 後ろから鏡月斎の怒声と、何かが倒れる音が聞こえてきた。千鶴の頬を涙が伝っていた。

 隠し通路は狭く、湿った空気が頬を撫でていく。必死に這いながら進む千鶴の耳に、微かにお雪の声が聞こえたような気がした。

 「生きて……千鶴さん……真実を……」

 その声は、もう二度と聞くことのできない、優しい調べだった。

 千鶴は唇を噛み締めながら、暗闇の中を進み続けた。お雪の犠牲を無駄にするわけにはいかない。必ず生き抜いて、この組織の悪事を白日の下に晒すのだと、心に誓いながら。

 やがて、通路の先に微かな光が見えてきた。外の世界への出口だった。しかし、そこで千鶴を待っていたのは──慎之助の驚いた顔だった。

 「千鶴! 無事だったのか!」

 「慎之助さん……」

 千鶴は安堵と悲しみで、その場に崩れ落ちそうになった。慎之助の温かい腕に支えられながら、彼女はお雪の最期の言葉を胸に刻んでいた。

 夜明けが近づいていた。しかし、この戦いはまだ終わっていない。鏡月斎と組織の全貌を暴き、お雪のような犠牲者をこれ以上出さないために──千鶴の真の戦いが、今始まろうとしていた。

薬草師と歪んだ鏡の迷宮

28

お雪の償い

霧島 彩乃

2026-04-17

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第28話 お雪の償い - 薬草師と歪んだ鏡の迷宮 | 福神漬出版