千鶴の足音が、石段に響いて消えていく。振り返ると、神社の境内にぽつんと立つ慎之助の影が、朝焼けに溶けるように小さくなっていった。
「慎之助さん……」
唇が震えた。あの人は本当に、私が知っている慎之助さんなのだろうか。心魂草に蝕まれた私の記憶の中で、彼の存在すら歪められているのかもしれない。もはや何を信じればいいのかわからない。
足を向けたのは、声の主が待つであろう裏路地だった。薄明かりの中、長い影が壁に踊る。千鶴は息を殺して歩を進めた。
「よく来てくれたな、千鶴」
静寂を破って響いた声に、千鶴の心臓が跳ね上がった。路地の奥から、白い着物を纏った男がゆっくりと姿を現す。年の頃は四十を過ぎたあたりか、痩身で背が高く、切れ長の目が鋭い光を宿していた。
「あなたが……鏡月斎」
千鶴の声は掠れていた。男は薄く微笑むと、優雅な仕草で頭を下げる。
「ご挨拶が遅れて失礼した。私は鏡月斎と名乗らせてもらっている。君のことは、よく存じ上げているよ」
「私のことを?」
「無論だ。白川千鶴、薬草師・白川玄庵の愛娘。聡明で美しく、父親譲りの薬草の知識を持つ稀有な娘だ」
鏡月斎の言葉に、千鶴の胸に不安が広がった。この男は一体、どこまで自分のことを知っているのだろうか。
「答えを知っていると言いましたね。何の答えですか」
「君が今、最も知りたがっていることだ。現実と幻覚の境界、記憶の真偽、そして……君の父親の真実」
父の名前が出た瞬間、千鶴の血の気が引いた。
「父が何だというのです」
鏡月斎はゆっくりと千鶴に歩み寄ると、月光に照らされた顔を見据えた。
「白川玄庵は、かつて私の共同研究者だった」
「嘘です!」
千鶴は思わず声を上げた。父がこんな男と関わりを持つはずがない。人体実験を行い、無辜の人々を苦しめる鬼畜と、慈愛に満ちた父が同じ道を歩んでいたなど、決してあり得ない。
「信じられないのも無理はない。だが、真実は時として残酷なものだ」
鏡月斎は懐から一枚の古い紙片を取り出した。それは父の筆跡で書かれた、薬草に関する研究記録のようだった。
「これは……」
千鶴の手が震えた。確かに父の字だった。しかし、そこに記されているのは、見たこともない薬草の調合法と、その効果に関する詳細な記録。まるで人を実験台にしたかのような、冷徹な観察記録が並んでいる。
「君の父は、心魂草の研究において私の最良のパートナーだった。人の心を読み、記憶を操作し、現実と幻覚の境界を自在に操る。我々はその可能性に魅せられていた」
「違う……父はそんな人じゃない……」
千鶴の声は次第に小さくなっていった。しかし、目の前にある証拠は、否定しがたい現実を突きつけてくる。
「ところが、玄庵は途中で研究を放棄した。『人の心を弄ぶのは神への冒涜だ』などと、綺麗事を並べてな」
鏡月斎の声に、初めて感情の色が混じった。それは深い失望と、怒りだった。
「私は一人で研究を続けた。そして、ついに心魂草の真の力を解き明かしたのだ。だが、それでも足りないものがあった」
「足りないもの?」
「玄庵の血を引く者だ」
鏡月斎の目が、千鶴を見据えた。その瞳に宿る狂気めいた光に、千鶴は身を竦ませる。
「君の一族は、代々薬草に対して特異な体質を持っている。心魂草の影響を受けながらも、完全に支配されることがない。まさに完璧な実験体だ」
「実験体……」
千鶴の唇から、呻くような声が漏れた。この男は、自分を実験台にするために近づいてきたのだ。茶屋の客たちの異変も、お雪の狂乱も、全てはこの瞬間のための布石だったのか。
「君の父が諦めた研究を、君と共に完成させよう。心魂草によって人の心を完全に支配し、理想の世界を創り上げるのだ」
「お断りします」
千鶴の声には、かすかな怒りが込められていた。父の名誉を汚し、自分を道具として扱おうとするこの男を、心の底から軽蔑した。
「断ると言っても、選択肢はないのだよ」
鏡月斎が手を上げると、路地の両端から黒装束の男たちが現れた。逃げ道を完全に塞がれ、千鶴は絶望的な状況に追い込まれる。
「君の体にはすでに、相当量の心魂草が蓄積されている。あと少し加えれば、君の意識は私の思うがままになる」
男の一人が、小さな竹筒を取り出した。その中には、見覚えのある紫色の粉末が入っている。心魂草を精製した毒だ。
「でも、できれば君には自らの意志で協力してもらいたい。そうすれば、苦痛は最小限に抑えられる」
「私は……私は……」
千鶴の意識が朦朧としてきた。心魂草の影響が再び強まっているのか、それとも極度の恐怖からくる混乱なのか、判然としない。
その時、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。夜明けを告げる太鼓だ。新しい一日の始まりを告げる音色が、絶望の淵に立たされた千鶴の心に、かすかな希望の光をもたらした。
「お考えはいかがかな、千鶴」
鏡月斎が再び口を開く。その声は、表面的には穏やかだったが、底知れない冷酷さを秘めていた。
千鶴は震える唇を噛み締めた。父の真実、自分の運命、そして愛する人への疑念。全てが絡み合って、彼女の心を引き裂いていく。
だが、その混沌の中にあっても、一つだけ確かなことがあった。目の前にいるこの男だけは、絶対に信じてはならない相手だということだった。
「答えを聞かせてもらおうか」
鏡月斎の声が、朝の静寂に響いた。