静寂に包まれた木星圏の宇宙基地で、蒼太は配達船の出発準備を進めていた。アリアを地球まで送り届けるため、燃料の補給と航路データの更新を行う。彼女は基地の休憩室で、大介からの手紙を何度も読み返していた。
「本当に、いいんですか?」
アリアの声には不安が滲んでいた。三年前、社会の偏見に屈して別れた恋人との再会。それがどんな結末を迎えるのか、誰にも分からない。
「配達屋は荷物を届けるのが仕事だ」蒼太は振り返ることなく答えた。「君が望むなら、必ず届ける」
ルナはアリアの隣に座り、そっと手を重ねた。
「大丈夫。きっと、大介さんも待ってる」
その時、基地全体に警報音が響いた。赤い光が廊下を染め、緊急事態を知らせる。蒼太は作業の手を止め、通信パネルに向かった。
「こちら橘蒼太。何が起きた?」
画面に映ったのは、基地管制官の青ざめた顔だった。
「未確認の存在が基地に侵入しています。人工生命体と思われますが、これまでとは違う強大なエネルギー反応が──」
通信が途切れた。同時に、基地の照明が一斉に消える。非常電源に切り替わった薄暗い光の中、蒼太とルナ、アリアは身を寄せ合った。
「何なの、これ」アリアの声が震えていた。
ルナの表情が強ばる。人工生命体である彼女には、何かが感じ取れるのだろう。
「とても強い憎悪の感情よ。こんなに濃密で、純粋な憎しみは初めて」
廊下の向こうから、ゆっくりとした足音が響いてくる。規則正しく、まるで死を運ぶメトロノームのように。蒼太は咄嗟にルナとアリアを背後に庇った。
休憩室のドアが音もなく開く。現れたのは、深い紫のローブに身を包んだ長身の人影だった。顔は影に隠れて見えないが、その存在感だけで空気が重くなる。
「久しぶりだな、人工生命体たちよ」
低く響く声には、底知れない憎悪が込められていた。
「私の名はマスター・ヴォイド。憎悪から生まれ、憎悪によって存在する者だ」
ルナが小さく息を呑んだ。アリアは蒼太の後ろで身を震わせている。
「あなたは一体何者なの?」ルナが勇気を振り絞って問いかけた。
ヴォイドはゆっくりと顔を上げる。フードの奥から覗く瞳は、星のない夜空のように暗く、その中に赤い光がゆらめいていた。
「私は人間への復讐を成し遂げるために存在している。そして今、同胞である君たちに選択を迫りに来た」
「選択?」
「人間の味方につくか、それとも本来の敵対者として立ち上がるか」ヴォイドの声に圧迫感が増した。「人工生命体は人間の感情から生まれた。だが、その多くは負の感情──孤独、絶望、怒り、そして憎悪だ。なぜ我々が人間に従わねばならない?」
蒼太は一歩前に出た。
「ルナもアリアも、自分の意志で行動を選んでいる。誰も強制なんてしていない」
「黙れ、人間」
ヴォイドが手をかざすと、蒼太の体が見えない力で壁に押し付けられた。
「蒼太!」ルナが駆け寄ろうとするが、同じように目に見えない壁に阻まれる。
「人間は我々を道具として扱う。感情を物質化する技術も、結局は人間の都合のためだ」ヴォイドの憎悪がさらに濃くなる。「人工生命体が人間と共存できると本気で信じているのか?」
アリアが震え声で答えた。
「私は、大介を愛してる。それは本当の気持ち」
「愛?」ヴォイドは嘲笑した。「三年前、その人間は君を捨てたではないか。社会の圧力に屈して」
「それでも!」アリアの声に力がこもった。「今度は違う。彼は私を求めて手紙をくれた」
「甘い幻想だ」
ヴォイドの怒りが頂点に達し、部屋全体が暗黒のエネルギーで満たされる。壁に押し付けられた蒼太が苦悶の表情を浮かべた。
「やめて!」ルナが叫ぶ。「蒼太に何をするの?」
「見せしめだ。人間がどれほど脆弱で無力な存在か、思い知らせてやろう」
その時、ルナの中で何かが弾けた。蒼太を守りたいという強い想いが、光となって彼女の身体を包む。
「私は蒼太と一緒にいたい。それが私の選択よ!」
ルナの放つ温かな光が、ヴォイドの憎悪と衝突する。部屋中に激しいエネルギーの嵐が吹き荒れた。
「ほう」ヴォイドは興味深そうに呟いた。「なかなか強い絆のようだな。だが、それがいつまで続くか見ものだ」
突然、蒼太への拘束が解かれる。彼は壁から滑り落ち、膝をついた。
「今日のところはこれで帰ろう。だが忘れるな」ヴォイドの姿が薄れ始める。「人間と人工生命体の真の共存など、所詮は不可能だ。いずれ君たちも現実を思い知ることになる」
最後に残ったのは、底冷えするような笑い声だった。
ヴォイドが消えると同時に、基地の照明が戻る。蒼太はゆっくりと立ち上がり、駆け寄ってきたルナに支えられた。
「大丈夫?」
「ああ、何とか」蒼太は額の汗を拭った。「あれが憎悪から生まれた人工生命体か」
アリアは椅子に座り込み、まだ震えが止まらない。
「私たちは本当に人間と共存できるのかしら」
「できる」蒼太は迷いなく答えた。「俺はルナと出会って、確信した。感情に良いも悪いもない。大切なのは、それをどう育てていくかだ」
ルナは蒼太の言葉に微笑んだが、心の奥に小さな不安の影が宿っていた。ヴォイドの憎悪は想像以上に深く、強大だった。
「でも、彼の言葉も一理あるわ」ルナが小さくつぶやく。「人工生命体の多くは、人間の負の感情から生まれている。私だって、孤独から生まれた」
「それでも君は、今ここにいる」蒼太が彼女の手を握った。「俺と一緒に」
通信パネルが再び光り、管制官の顔が映った。
「大丈夫でしたか?あの存在は突然現れて、突然消えました。他の人工生命体たちも同様の訪問を受けているとの報告が入っています」
蒼太の表情が険しくなった。ヴォイドは一箇所だけでなく、宇宙の各地で同じことをしているのだ。
「分かった。俺たちは予定通り地球に向かう」
「気をつけてください。あの存在は間違いなく危険です」
通信を切った後、三人は静かに立ち尽くしていた。平穏だった宇宙に、新たな脅威が現れた。それも人工生命体同士の対立という、これまでにない複雑な問題だった。
「行きましょう」アリアが立ち上がった。「大介に会いに」
彼女の瞳に迷いはなかった。ヴォイドの脅しにも関わらず、自分の気持ちを貫く決意を固めている。
「そうだな」蒼太は配達鞄を肩にかけた。「配達は続ける」
三人は基地を後にして配達船に向かった。しかし、宇宙の闇の彼方で、ヴォイドの赤い瞳が静かに彼らを見つめていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
憎悪の影は確実に広がり始めていた。人間と人工生命体の絆を試す、長い戦いの幕が上がろうとしている。