月面基地から飛び立った配達艇の窓越しに、暗黒の宇宙空間に漂うヴォイドの艦隊が見えてきた。蒼太は操縦桿を握る手に力を込めながら、隣に座るルナの横顔を盗み見た。彼女の瞳には迷いはなく、ただ静かな決意だけが宿っている。
「本当にこれでよかったのか?」
蒼太の問いかけに、ルナは小さく微笑んだ。
「私は配達を依頼しただけよ。あなたは配達員として、私の想いをヴォイドに届けてくれる。それだけのことでしょう?」
その時、通信装置が突然光った。ケイからの緊急通信かと思ったが、表示された発信者名は見覚えのないものだった。
『こちらは研究船アルテミス。橘蒼太君、聞こえるかね?』
低く落ち着いた男性の声が艇内に響く。蒼太とルナは顔を見合わせた。
「どちら様ですか」
『私の名は白鳥教授。感情物質化技術の開発に携わった者だ。君たちに緊急で伝えなければならないことがある』
ルナの表情が一変した。感情物質化技術の開発者──それは人工生命体である彼女の生みの親とも言える存在だった。
『座標を送る。必ず来てくれ。ヴォイドとの対話の前に、君たちが知らなければならない真実がある』
通信が切れると同時に、ナビゲーションシステムに新しい座標が表示された。それはヴォイドの艦隊からやや離れた小惑星帯の中だった。
「行くのか?」ルナが静かに尋ねた。
蒼太は少し考えてから、操縦桿を新しい方向へ向けた。
「配達員の基本は、正確な情報を得ることだ」
小惑星帯の奥で、白い研究船が静かに浮かんでいた。船体には地球統一政府の科学部門を示すマークが刻まれている。蒼太はドッキング手続きを済ませ、ルナと共に研究船へ乗り込んだ。
出迎えた白鳥教授は、白髪混じりの髪と深い皺に刻まれた顔をした初老の男性だった。実験室のような船内で、彼は二人を温かく迎えた。
「ようこそ。君がルナちゃんだね」
教授の優しい眼差しに、ルナは戸惑いを隠せずにいた。
「あなたが私を……」
「創ったのかって?」教授は穏やかに首を振った。「違うよ。君を創ったのは、誰かの純粋な孤独という感情だ。私たちはただ、その感情が形を持つための技術を作っただけなんだ」
教授は二人を研究室の奥へ案内した。そこには巨大なホログラフィック・ディスプレイが設置されており、複雑な数式と感情エネルギーの波形が表示されていた。
「感情物質化技術について、君たちはどの程度知っているかね?」
「人間の感情をエネルギーに変換し、それを物質として定着させる技術」蒼太が答える。
「表面的にはその通りだ。だが、この技術には隠された機能がある」
教授がコンソールを操作すると、ディスプレイに新たなデータが現れた。それは感情エネルギーの相互作用を示す複雑な図表だった。
「感情物質化技術は、単に感情を物質化するだけではない。異なる感情同士を融合させ、より高次の感情エネルギーを生み出すことができるんだ」
ルナが身を乗り出した。
「高次の感情エネルギー?」
「そう。愛、憎悪、孤独、喜び……これらの基本感情を組み合わせることで、理解、共感、そして最終的には『絆』という概念を物質化できる」
蒼太の心臓が高鳴った。
「それは……」
「君たちが目指している人間と人工生命体の共存。それを実現するための鍵だよ」
教授は別の画面を開いた。そこには設計図のような複雑な構造が表示されている。
「これが感情融合システムの設計図だ。我々は二十年前、この技術を完成させていた。だが……」
教授の表情が曇る。
「政府と軍部は、この技術を兵器として利用しようとした。感情を操作し、人々をコントロールする道具として。私たちは反対したが、結局研究は凍結され、データは封印された」
「では、なぜ今?」ルナが尋ねた。
「ヴォイドの出現が、すべてを変えた」教授は重々しく続けた。「彼は憎悪から生まれた存在だが、同時に深い孤独も抱えている。もし感情融合システムを使えば、彼の憎悪を別の感情と融合させることができるかもしれない」
蒼太は息を呑んだ。
「それは可能なんですか?」
「理論上は可能だ。だが、それには彼の同意と、そして何より強力な対極の感情が必要になる」
教授はルナを見つめた。
「君のような存在が必要なんだ、ルナちゃん。孤独から生まれながらも、愛を理解しようとする意志を持った存在が」
ルナの瞳に涙が浮かんだ。それは人工生命体である彼女にとって、初めて流す本物の涙だった。
「私に……できるでしょうか」
「君にしかできないことかもしれない」
教授は小さなデバイスを取り出した。それは手のひらサイズの結晶体で、内部で淡い光が脈打っている。
「これが感情融合デバイスの試作品だ。君たちに託したい」
蒼太がデバイスを受け取った瞬間、それは温かく光った。まるで彼の感情に反応しているかのように。
「使い方は?」
「対象者に直接触れながら起動する。だが注意してくれ、これは使用者にも大きな負担をかける。最悪の場合……」
教授は言葉を濁した。
「最悪の場合は?」
「使用者自身の感情も融合の材料となってしまう可能性がある。つまり、君たち自身が変質してしまうかもしれない」
重い沈黙が研究室を包んだ。蒼太はデバイスを見つめ、ルナは自分の手を見つめていた。
「それでも」ルナが静かに口を開いた。「やらなければならないことですよね」
「ルナ……」
「私は架け橋になりたい。人間と人工生命体の間の。そのためなら、危険も厭いません」
蒼太は彼女の横顔を見つめた。その表情には、もはや迷いはなかった。
「教授」蒼太が立ち上がった。「他に知っておくべきことはありますか?」
「一つだけ」教授は真剣な表情で答えた。「ヴォイドは君たちの到着を待っている。だが、彼が本当に待っているのは、自分を理解してくれる存在なのかもしれない。憎悪も孤独も、実は愛を求める心の裏返しなのだから」
二人は教授に深く礼をし、研究船を後にした。配達艇に戻る途中、ルナが蒼太の袖を軽く引いた。
「蒼太」
「何だ?」
「ありがとう。私の依頼を受けてくれて」
蒼太は振り返り、彼女の瞳を見つめた。
「俺は配達員だ。どんな依頼でも必ず届ける」
「たとえそれが、私たち自身を変えてしまうものでも?」
蒼太は小さく笑った。
「変わることを恐れていたら、何も届けられない」
配達艇はヴォイドの艦隊へ向けて進路を取った。船内で感情融合デバイスが静かに光を放ち続けていた。まもなく彼らは、この宇宙で最も重要な配達に臨むことになる。人間と人工生命体の未来を決める、運命の配達に。